ひとりごと(2009年7月分) |
2009年7月31日(金) 「2009リサイタルの回想」 1カ月の通勤定期が切れました。そう考えるとこの1カ月は本当に長かった・・・元とれまくるほど学校に良く通いました。そしていろいろな事がありました。 夏期講習が終わって、やっと学校は一段落。と思うだけで全く心持ちが違います。朝起きももちろんの事、時間的制約など、小心者にはいろいろ負担になる事が多かったのかも、と今更のように気付かされています。もともとストレスには(多分)強い方でぎりぎりまで我慢できてしまうし、何か体に不調が起きない限り心が感知しない鈍感なところもあり・・・。あれだけハチャメチャな生活をしていて、不眠症だったにも関わらず、突然嘘のようによく眠れるようになりました。ここぞとばかり寝だめをしています。 未だ5月のリサイタルの録音は聴いていないのですが・・・6月7、19日に引き続き、少しずつ思い出して書いていこうと思います。 前回「出会ってしまった曲」の事を書きましたが、平均律1巻は「出会ってしまった」というよりは「一緒に育ってきた仲間」かな?と思うのです。出会うも何もいつの間にかそばにいて、有無を言わさずいつも一緒、みたいな。レッスンにはエチュード、平均律、そして曲と3本立てで用意して行くのが当たり前だったので、常に平均律のどれかは弾いていました。曲と自分の距離についてもよく考えます。数年前までは自分に高いハードルを課す意味で、出会いがしらに人前に出してしまうような曲もあれば、ちょっと遠い存在なのに冒険とわかっていながら挑戦した曲もあり・・・。でも今回は距離も何も考える必要がなかったので、心に無理はありませんでした。もちろん、平均律が全てのピアノ作品の中で最も素晴らしく、内容が深く、そしていろいろな解釈ができて、全曲通せば結構なボリュームで、でも1曲1曲が多彩で変化に富んでいて・・・そういう意味では、果たして今自分が一晩で弾き切る事ができるのか、躊躇したのも事実ですが。 それでも何でも、いつも頭の中に鳴らせる状態になっていたのはとても大きかったと、今終わってみて思います。1巻の方は全24曲の約3分の2、小学校高学年の内に弾いていました。「平均律」という言葉の先入観が全くない内に、面白くて勝手にどんどん弾き進めて暗譜してしまい、そしてその時家に形式の分析について書かれている本があって「なるほどなるほど・・・」と読んで(この頃から活字中毒でした)、そして中学生になった頃は学校の礼拝の時の奏楽で演奏する機会を何度も与えられ・・・そうやって繰り返し繰り返し、自己流ながら味わっている内に体の中に音が入っていた感じでした。2巻は中学生になってから取り組んだようなものなので、ここまでは体の中にしみ込んではいません。やはり脳味噌のメモリに余裕がある内に覚えたものは強力・・・。 それはともかく、リサイタルで取り上げる事を躊躇した理由の1つに、「1曲1曲のキャラクターを弾き分けられるかどうか」がありました。弾き分けるといっても、曲ごとに作曲家が違うとか、時代背景が違うとか、そこまで大きな違いがある訳ではないからです。昔弾いた事はいったんニュートラルに戻して、もう1度考え直そうと試みたつもりでしたが、何かを変えようとすればするほど作為的になって、自分の目指したバッハ像とはかけ離れていくような気がする。それこそ本番数日前までどういう風に弾こうか、本気で悩んでいました。 今回、古今東西の名演と言われるチェンバリスト、ピアニストの録音をいろいろ聴きました。いろいろな解釈が許されるからこそ当然ながらさまざまな弾き方があり、その中で好きな演奏というのは限られるのですが、好きではあっても自分が弾きたいと思う演奏に近いものは全くなく・・・だったら自分の思うところをそのまま衒いなく、相手に伝わるように表現すればいいのかもしれないと、やっとそこで開き直れました。直前4日位でいろいろ変わり、当日ゲネプロと本番でも全く違った演奏になりました。 当日演奏直前は、迷っている暇も楽しむ余裕もありませんでした。とにかく集中しよう、と。長い曲で集中力を保つならまだしも、プレリュードとフーガを分けたら全48曲、1曲短ければ2分程度、長くても5分位ですぐ、計47回気持ちを切り替えなければなりません。テンポを設定し、拍子を改めて意識し、気持ちも指先のタッチも変え、カラーを出せるように努めたつもりです。それを最後まで持続するために、精神力が全てだと自分に言い聞かせて舞台に立ちました。 そう思いながら弾くはずだったのに・・・でも弾いている最中は本当に幸せでした。48曲つながって、螺旋状の階段をくるくる上りながら高みを目指しているようなイメージが、弾いている最中脳裏に浮かびました。1曲1曲のキャラクターというより、全曲通して演奏する事によって見えてくるもの、それが実感として本番で理解できたような気がします。なぜ1番のプレリュードがあれだけシンプルで清明で、なぜ24曲中後半の方に内容の重い深い曲が多くて、なぜ24番のフーガがあれだけ複雑で苦渋に満ちていて、最後に救いがあるのか、そんな事を考えながら弾いていました。一体どんな順番で作曲していったのだろう?そして、全曲通すからこそ個々のキャラクターが際立つ、とも。 調性の持つ色合い、曲のスタイル、リズム等々48曲(プレリュードとフーガ別々で)揃えてあるのはすごい事。頭で分かっていたのに、それを肌で感じたのは正に舞台の上でした。人間の創り出したものとはとても思えず、「バッハ恐るべし」です。 正直に言えば、もともとは1巻より2巻の方が好きでした。やはり1巻からかなりの時間をおいて書かれただけあって、充実した構成や深い内容を持つ曲が多いので。でも弾いている内に1巻も好きになりました。和声的進行をアルペジオにしただけのようなプレリュードでさえ、それぞれが違う雰囲気を湛えていて、キラキラした魅力があり、シンプルなものならではの美しさがあります。そして全曲通してみれば、各曲の並べてある順番にさえ必然性を感じました。 演奏する時に気をつけた事。今回、もしかして平均律を弾くかもしれないと思っていたので、浜離宮朝日ホールを予約しました。このホールの柔らかで豊かな響きが大好きなのですが、あの残響ならペダル無しで弾く事が可能だとふんでの事でした。バッハに必要以上のペダルを使い、分厚い響きでラインが分からなくなってしまう弾き方にするのは嫌でした。対位法の曲を演奏するからには、ペダルを使えないチェンバロで指使いを吟味してレガートにするような、そんなイメージがほしかったのです。実際はかなりの曲をペダル無しで弾きましたが、イメージしていた通りの響きになったと思います。また、「パイプオルガンのような響きも感じた」と何人かの方に言って頂けましたが、それは効果を出す為に敢えてペダルを多く使ったところです。 普段、ソロの曲では目をつぶって弾いている事の方が多いのですが、それは無意識の内にしている事。集中できるからか、自然とそうなっています。今までは本番でふと、自分が目を開けているかつぶっているか意識してしまって、変に緊張してしまう事がありました。目をつぶっている方がうまくいくところもあれば、目をしっかり開けて(鍵盤を見て)弾く方がうまくいくところもある。今回は考えて使い分けたら楽になり、これは「発見!」でした。 本番での話に戻ります。ここ(平均律)が自分の居場所だと確信できたし、不思議と長さは感じませんでした。迷っている暇はないと言いつつ、ぎりぎりまで迷っていろいろ変えていたはずなのに、いつの間にか迷いは消えていました。集中力が全てで頭を使って演奏しなくてはと思っていたのに、結果的には感性の方が優先され、想いを伝えようという演奏になっていたと思います。どの曲かは敢えて言いませんが、想いを強く込めて弾いた曲が幾つかありました。あの時の生活、心境が反映された結果です。弾く事=生きている事だと改めて思わされました。 弾いている最中に、そして弾き終わった直後に実感しました。本当に、本当にすごい作品だと。帰宅して真夜中にもう1度、全曲通して弾きたくなったのは初めての事です(する事がたくさんあって結局弾けませんでしたが・・・)。 来年は絶対に無理ですが、近い内に2巻も演奏したいと思っています。さすがに2巻の方は1巻ほど存在が近くないので、計画的に準備しなければならないでしょう。 まだ録音を聴いていないので、聴いたら今日書いた事を取り消す事があるかもしれない・・・と思いつつ、でもこのままアップする事にします。 休みになって真っ先にした事。この春に弾いていた楽譜をしまい、これからさらうべき曲の楽譜と入れ替えました。自分のソロ曲はもとより、学生さんに出したけど実は自分のレパートリーに入っていない曲、室内楽などなど。来年のリサイタルの曲もちょこっと考えてみましたが、全く考えがまとまらず、しばらく放っておく事にします。いずれ発酵して爆発して、いいアイデアが出てくる事を期待して・・・。 2009年7月25日(土) 「出会ってしまった曲」 せっかく梅雨が明けたと思ったのに・・・。 前期末の佳境で、今週は見事に毎日、学校で「暮らして」おります。今週も相変わらず、うつらうつらとしたまま朝を迎え、そのまま出かけるというようなハチャメチャな生活ぶり。それでも先週で高校が夏休みに入り(その代わり8月最終週から始まる・・・)、大学は今週半ばで授業期間が終わって今は試験期間、それでも補講をし、ゼミの演奏会の伴奏をし、そして今日は1日かけて教職ピアノの試験。という具合に少しずつ減ってきて、夏休みがひたひたと迫りつつある・・・はず。でもこのお天気では、そんな気分も一向に盛り上がらないのです。 昨日もほぼ1日、学校に居りました。臨時なのでいつもと違うレッスン室だったのですが、そこは窓から見える眺めがお気に入りの場所。ホールのある建物と練習棟の間の道がまっすぐに見渡せ、空も広く感じられるところです。数年前、ここで毎週レッスンをしていました。高い建物に挟まれているその道は、時間帯や季節によって、日陰になったり日なたになったり、見える風景がいつも違います。自転車に乗り、あるいは楽器を担いで学生さん達が行き交い、その上には大きな空が広がっていて、流れゆく雲や夕焼け、西に沈みゆく三日月などをいつも眺めていました。 そこから見えた昨日のお天気、実にドラマチックでした。雨がパラパラ降り、曇り空が少し明るくなり、日が差してきたと思ったら、雲がきれいに無くなり一面青空、と思ったのも束の間、灰色の雲にまた覆われ、いつしか大雨。目まぐるしくってついてゆけない・・・。 そんな中、レッスンをし、本番直前の学生さんの合わせをし、本番で伴奏し・・・の繰り返し、バラエティに富んだ(?)1日でした。1時間ほどまとまった時間ができたので、久しぶりに自分のピアノをさらいました。9月のリサイタルで弾くシューマンのダヴィッド同盟舞曲集。これを最後に弾いたのは6〜7年位前?楽譜を開くのはあれ以来初めてのはず。 この曲との出会いは一目惚れでした。正確には一弾き惚れ。聴いてみて何となくいい曲と思っていたのですが、弾き始めたら一気にのめり込み・・・あそこまでのめり込めた曲は前代未聞でした。初めて舞台に乗せたのは、あるところで弾かせて頂いたリサイタルでしたが、譜読みから確か1カ月位で本番を迎えていました。今考えれば相当に無謀なのに、でも好きで好きでたまらない曲だったし、毎日弾いていて楽しくて、いろいろなアイデアがわきあがってきて、1カ月で暗譜して人前に出せる?なんて不安さえこれっぽちもよぎらなかった。まるでシューマンが自分の為に書いてくれたかのようで(なんて言ったらお墓の中で怒るでしょうね・・・ごめんなさい)、曲がいろいろ語りかけてきてくれて、いろいろ教えてくれる。そんな思い出深い作品です。 その初めての出会いから何回か人前に出しましたが、あんなに好きだったのにあんなに弾いていたのに指がすぐ思い出してくれなくて・・・なんか変、と思って今調べたら、最後に弾いたのはなんと10年前でした。10年も経っているなんて思えなくて、とてもショック・・・。 そう、「出会ってしまった曲」というのがあると思うのです。自分の中の何かを変えるきっかけになったり、あるいは新たな表現を見つけたりテクニックを習得したり、そんな大切な曲。私たちは自分の想いを自らの曲に託すのではなく、古今東西の大作曲家たちが遺してくれたかけがえのない作品の力を借りて、自分の音楽として新たに表現しているのです。だからこそ、自分を育ててくれる曲、自分の想いをのせられる曲に出会えるかどうかがどれほど大切か、今となってはよく分かります。学生時代はそんな1曲を先生が探して下さり、その後は自ら求めて探し・・・好きなものと似合うものは違うかもしれない。昔はぴんと来なかったものが今は合うという事もある。そうやって出会ってしまった幾つかの曲に、想いを巡らせておりました。 学生時代から数多く弾いているシューマンの作品の中でも、私にとってこの曲が1番なのです。全18曲、短いけれどいろいろな気分に満ちた舞曲の数々。目まぐるしく移り変わってゆくその1曲1曲が、どれもがシューマンの「その時」の本当の気持ちをストレートに表しているように感じます。「他の作品以上にクララに捧げたもの」とシューマン自身がクララへの手紙へ書いたように、後に妻となるクララへの想いに溢れていて、それが今にも壊れそうなほどに繊細で、時には大胆で・・・そこになぜか強い共感を覚えるのです。 この曲を弾き始めた時から、耳の中でほしい音が、音楽が鳴っていたような気がします。楽譜がそう語ってくれていたから、それを表現できない自分がもどかしくて、何かにとりつかれたように弾きながらいろいろ探していました。1本の旋律をどうやって立体的に歌わせるか、リズムをどうやって生き生きと表現するか、繰り返される同じ旋律をどのように変化させるか、いい響きを生み出す為にどうペダルを使うか、限りなく柔らかい音、限りなくはっきりとした音・・・。今無意識の内にやっているけれど、そんな事を一つ一つ見つける事ができたのはこの曲のお陰だっけ、と懐かしく思い出していました。 昨日伴奏した学生さん達、今年度初のソロという事もあって多少緊張はしていたようでしたが、緊張と上手に向き合ってそれを力に変え、自分の音楽を奏でていました。私自身気持ちよく終えられた本番でした。ここで出会えたこれらの曲も、きっと今後につながってゆくんだろうな・・・。 ハタと我に返って、9月のリサイタルまで1カ月半。でもお盆の後は例年通り講習会で伴奏、その後すぐ高校が、9月頭からは大学も始まります。という訳でまともにピアノに向かえるのはほぼ半月。来週からは気持ちを切り替えて、集中モードで自分の練習にいそしむ・・・ではない、楽しむ予定です。 その前に今日は試験でした。今から即、寝ますzzz・・・。 2009年7月17日(金) 「胡蝶蘭」 梅雨が明けました。青い空、地面から立ち上るすごい熱気、なんだか嬉しいです。例年より早くに夏が来て・・・。 久しぶりに良く眠りました。心も頭も体も限界まで追い込まれている、と昨晩眠る前に気付いただけに、これだけ眠れたのは驚きでした。なぜって最近は、不眠症だったので。その日の内にやるべき事を全て片づけるまで起きていられたのは、どうやらそのお陰だったと気付かされています。普段は眠れなくても電車の中では熟睡できていたのが、先週は眠れなくて・・・体は疲れているのに頭だけが起きていて、長い通勤時間が苦痛でした。さすがに今週は疲れがたまり、夜中、あともう少しで終わるのに・・・というところでうとうと、お昼寝のごとき短き睡眠時間をみすみす電気をつけたままにしてしまい、結局そのまま学校へ行った日が数回。何をやっているんだか・・・。 大分前の話ですが七夕の日、きれいな満月が見られました。七夕の日に満月が重なるのもめったにある事ではないし、帰宅途中雲の切れ目から月が覗いたのも偶然。夜中にもう一度見ようと外に出たら、空は一面雲に覆われていましたが、小さな幸せを感じました。 来週22日の日食も楽しみなのです。ここら辺では皆既日食には至らないけど、それでも4分の3も欠けて見えるとしたらどんな感じなんだろう?世の中の小中学生は夏休みだからゆっくり観察できるでしょうけど、ウチの大学はまだ普通授業です。レッスンに来た数人の学生さんに尋ねてみました。「来週の今日、日食なんだけど・・・知ってる?」。「知っています!」と答えてくれたのは1人だけ。日食について、かなりとんちんかんな知識を披露してくれた学生さんもいました・・・。 前に部分日食を見たのはいつだったろう?もしかしたら学生時代?位、遠い昔の事のような気がします。ふと思い立って紙に針で穴を開け、そこを通して映し出された小さな光が既に三日月型(正確には三日日型?)をしていたのに感激しました。ちょうどレッスンしている時間ですが束の間の休憩が入っているので、今回もそうやって学生さんと一緒に見ようかと思っています。その前に晴れてほしい・・・。 試験や本番が近くなってくると、レッスンや合わせも禅問答のごとき。自分でもレッスン(合わせも)って何する時間?と分からなくなる時があります。そんな中であった出来事をちょっとばかり。 いつもよく考えて練習し、結構いい感じまで仕上がってきたけれど・・・?という学生さんに、「桜はいつが一番美しい?」と尋ねてみました。「満開、もしくは散り始め」だと。演奏もそんな感じだと思うのです。3分咲きとか5分咲きのように、余力ばかりの守りに入ったような演奏は何か違うような気がする。年1度の開花に賭けて精一杯咲いている満開の時、そして散り際の時のような演奏をしたい、聴きたいと思うのです。ただし、桜の状態は自然が決める事だけど、演奏の状態を決めるのは自分(ある意味では、そうだと思っています)。 全楽章をやる場合、「どの楽章をへそにする?」。これもよく尋ねる質問です。起承転結でないけれど1つの大きい曲として考えれば、緊張するところもリラックスするところもあるはずと思うのです。ある学生さんは、「(へそは1つと決めずに)どの楽章も全て」という見事な返答をしてくれました。桜の話はしていないはずなのに(別の学生さんにした話)、「下手に余力を残すのもいやだし、全力で駆け抜ける事に意義がある」と力説してくれました。そんな答えも初めてだったけれど、すがすがしくて何だか嬉しくなりました。 毎回レッスンで録音している学生さん。たまたまレッスン中に機械が動かなくなった時、話した事。本当に大事な事は録音にもメモにも残せないと思うのです。私自身、レッスンそのものを録音した事は・・・多分ないはず。子供時代、今みたいに簡単便利に録音できるものがなかったというのもあり、その習慣がないまま育ったというのもあります。レッスンの後、どうしても今教えて頂いた事を忘れたくないと思った時は、電車に乗る前にホームのベンチで楽譜を広げ、必死で思い出して書き込みをしていました。でもそういう時に限って、書き込む言葉がみつからないもの。さっき先生が弾いて下さったあの響き、その後に弾いてみた時の感覚、気持ち、そして考えた事は正にその瞬間だけのもので、書く事が何もないと気付かされたものです。だからこそそういう時は、帰ってすぐにピアノに向かうだけ。何とかあの時と同じ感覚を再現したくて・・・。 「この曲にキャッチ・コピーをつけてみて」、ともよく言います。その曲の一番おいしいところを理解しているかどうか、またその曲との間にどれくらいの距離があるかがいっぺんでばれます。そして文章力も。これ、なかなか面白い事が聞き出せるのです。その人の隠れた一面がよくわかります。 人前で演奏するって、結局最後は心の状態なのかも。そう思わされる事、この1週間、何人もの学生さんの演奏を聴き、いろいろ話し、感じました。がむしゃらに練習する事が全てではない。だって練習の成果を発表する事そのものが演奏の意義ではないのだから。 話変わり・・・学校内のある場所。大きな窓が並び、そこに胡蝶蘭の鉢が幾つも並べられています。昨年か一昨年からか気付いていましたが、そこは胡蝶蘭再開花支援所、みたいになっているのです。1日学校にいるから分かるのですが、ちゃんとブラインドで日よけしたり、きちんと日に当てる時間が決められていて、それを管理している方がいらっしゃるようです。いつの時期でも、まさに今この真夏でも、胡蝶蘭が満開。花が咲き終わった鉢はファームに連れていかれ、恐らく次の鉢とバトンタッチしているのでしょう。1年中常に開花しているのを見ていると、自分がそこそこに土いじりをするだけに、どれだけすごい事かよくわかります。年に1回しか咲かないはずなのに、それぞれの株ごとに開花時期を調整しているのか、それとも?毎朝、今日もきれい・・・と思って見ています。 明日も実技試験の審査。どんな演奏が聴けるのでしょうか・・・? 2009年7月7日(火) 「七夕」 昨日も雨がザーッと降ったり、止んだり、パラパラ再度降りだしたり、忙しいお天気でしたが、夕暮れ時に見事に晴れました。久しぶりにみる雲一つない青空・・・。今日は七夕。せめて夜は晴れてほしい。 今一つだけ願いがかなうとしたら?ふと思いました。そのたった一つの願いがかなう代わりに、自分にとって一番大切なものを手放す事になったら?簡単にその願いがかなってしまったら、都合が良過ぎ。「願い」ってそれ位重いもののはず・・・。 学校は前期末に向けてラスト・スパート。家に戻る時間の方がもったいない(?)ような学校入り浸りの生活。学生さんよりも長い時間、学校に「住んで」いるかもしれません〜。という訳で毎日同じような生活が続いているので、書けるような話題がなくて・・・。 最近思った事。「音」はその人を語る。 先日聴きにいったあるコンサートで、お互いとても信頼し合っている指揮者の方とオーケストラの創り出した音と音楽に感動しました。例えば、その人の専攻の楽器で奏でる音が、その人自身、その人の想い、その人の考えを語るのは、ある意味当然の事。だけど自分では音を鳴らさない指揮者と、何十人もの演奏家から成るオーケストラ。えもいわれぬ「想いの化学反応」の瞬間を目の前で見せられたようでした・・・。 もうひとつ、副科の学生さんが試演会で弾いてくれたピアノ。もちろんピアノ専攻の人ほど難しい曲ではないし、そんなに練習に時間をかけられる訳ではないけれど、皆がそれぞれ自分の色、自分の想い、自分の歌をピアノで奏でてくれた事に、本当に嬉しくなりました。そして、そこまで真剣にピアノに取り組んでくれた事にも、感謝です。 先日、世界を股にかけてご活躍なさっている先輩ピアニストに、タイミング良くお昼をご一緒させて頂く機会があったのです。いろいろ音楽の話をしていた中、「こんな音を」という事をレッスンで伝えるのってどうしたらいいんだろう?とおっしゃっていたのがとても印象的でした。こんなすごい方でもそんな事を考えていらっしゃるんだと思ったら、私ごときがぴぃぴぃ悩むのは当たり前か・・・と、ちょこっと気が楽になりました(次元が違いますが)。でもこんな若輩者に気さくにいろいろ話して下さって、本当に本当にありがたいひとときでした。 数年前まで、そう言えば私自身「自分の音がほしい」と言っていた気がします。でももしかしたら今は、良くも悪くも「自分は自分」という音になってきたかもしれません。特に何をした訳ではなく、自分の音をよく聴いて、そして自分らしく生きる事が全てなのかも。やっぱりこれからも、専攻のみならず副科の学生さんにも「音」にこだわり続けようっと・・・。 |
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