ひとりごと(2009年3月分)

2009年3月31日(火)           「居残り」

今年度も終わります。卒業生を送り出したら新入生を迎え入れる。当たり前のように毎年繰り返されているこの事、昔は当たり前ではありませんでした。自分が学生だった時には、あと2年、あと1年・・・とカウント・ダウン、そして社会に放り出され、学校がどんなにぬくぬくと温かい環境だったかを実感したものでした。

今回送り出した学年は、私がこの学校に勤め始めた年の高校1年生。あれから7年も経ったのかと驚き、今は居残る立場だという事に気付かされています。7年経って果たして私は変わったのだろうか、化石にだけはなりたくない、と。

今年始まってまだそんなに経ってもいないのに、本当にいろいろな事が起きています。信じられない事があり、そして不思議な事がたくさんありました・・・。

出会いと別れであったり、生き方だったり、そんな事をたくさん考えるようになっていた今日この頃です。人との出会いは長さでも頻度でもなく深さだと、今ははっきり言い切る事ができます。人生の中では一瞬であっても、深く足跡を残してゆく人がいます・・・。

今出来る事はただただ祈るだけ。生きる意味が変わりました。そしてピアノを弾く意味がもっともっと強くなりました。

毎年恒例の弦楽器の講習会、先週から始まっていました。朝から晩まで伴奏をしていて家には寝に帰るだけ、という生活はこんな感じだっけ。急にきつい生活に戻ったので体がついてゆきません。毎日を「過ごす」だけにしてしまうと、いくら精一杯頑張っているつもりでも「時間が流れているだけ」と同じ。ちゃんと強く意志を持って生きていかないと・・・と反省しました。

桜の開花宣言が早かった割には、この寒さで長持ちしているようです。講習会場の近辺は桜の名所なのですが、せっかくライト・アップされているのに講習会が終わるまでに満開にはなりませんでした。なぜか、桜には人一倍思い入れがあるのです。ゆっくり見に行けたら・・・。




2009年3月23日(月)           「エスプリ」

スイッチ、やっと切れました・・・。

ん?一体何の事?と思われた方は前回分↓をお読み下さい。数日間、ピアノとここまで充実した時間が過ごせたのは嬉しいけれど、ふと我に返ったらいろいろ大切な用事が抜け落ちているのに気付きました。既に支障が出かかっているので、しばらくは「気になる事を片づけてからピアノ」という生活に戻します。あのままピアノだけ弾けていたら幸せなのに・・・と思いつつ、大人はそういう訳にはいかないのが悲しい。

忘れない内に、中途になっていた富田さんとのコンサートについて再度書きます。

それにしても不思議な感覚でした。あの日は緊張もせず、信じられない位普通の状態で本番を待っていました。素面の状態で舞台に出ていくのはよくないはず・・・と普段なら考えるのに、それさえ全く頭に浮かばず。なのに本番が始まり、ピアノの前に座った瞬間にはどこか別次元に意識が行っていました。曲の中にきちんと入れている自分も、音を聴き、そしてピアノのタッチを感じてコントロールしている冷静な自分も、両方居ました。集中しているという意識もないのに、今思えば、最後までナチュラルなまま集中が持続したような気がします。本当に弾きたいと思っている曲が目の前にあれば、余計なもの(邪念とか)は消えるのかもしれない。弾くのが結構難しい楽章もあったのに、やだなぁとも思わなかったし、気合いで乗り切ろうとも思わなかったし、考えるより感じる事、そして今演奏できる状況に感謝する事、ただただそれだけ。夢だったのかもしれないと思える位現実味はないのですが、当日頂いた花束(まだ綺麗に咲き続けています)を見て、「あぁやっぱり本当だったのか〜」と思います。

好きなものと自分に合うものは必ずしも一致しない。例えば色、好きな色と似合う色は結構違う。曲もそうかもしれません。曲、あるいは作曲家の場合、どんなに好きでも合わない(と言われる)ものがあります。フランスものは(少なくともドイツものよりは)自信がないし、どんなに好きでもその作曲家固有の音や音楽が出せていないと思う場合もあり・・・それでもやっぱりフランスものはいいなと改めて思いました。

今回のプーランクとフォーレ、ゆっくりの楽章では「あの旋律を何としてでも美しく歌わせたい」と常に思っていました。プーランクと言えば管か声楽、フォーレもやはり声楽に力を入れていた作曲家という印象が強いのですが、それが今回演奏した弦とピアノのための作品そこかしこに反映されている気がしました。旋律には「息遣い」が宿っています。

時には豊かに、時には繊細に旋律を歌い継いでゆく、もっともっといい響きで歌わせたいと思うのですが、実はフランスものの場合、ピアノでは少し難しいのです。コンサート当日の懇談会(演奏後にホールで行われる質問コーナーみたいな感じ?)でもお話ししましたが、ドイツものの場合、例えばシューベルトやブラームスなどの室内楽作品では音の重ね具合がかなり厚いので、低音を効かせて倍音の助けを借りて響かせる事ができます。それがフランスものだと全体の音の重ね方が薄いので、回りの助けを借りられずに旋律ラインがむき出しになります。その中でごつごつせず、重みを出さない弾き方をしつつ響きをキープするために、当日はいろいろな工夫(内緒)をして弾いてみました。速い楽章では音を抜かさずに粒を揃え、その中で美しいハーモニーとフランスのエスプリを表現したいと思ったのですが・・・きっとエスプリは「表現しよう」と思ってするものではないのだろうな、という事は分かっています・・・。

それにしてもスタッフの皆様はもちろんの事、会場のお客様もとても温かく、そして真剣に聴いて下さっているのを感じました。ありがとうございました。そしてこの「松井クラシックのつどい」が末永く活動を続けてゆかれる事、心より願っております。

花粉症がピークです。お天気によってその日の症状が劇的に変わります。一番きついのは今日みたいな強風の日。春の大風がごぅごぅ吹くあの音は昔から大嫌いなのですが(せっかく咲き始めた春の花々がかわいそうで)、そこに症状のひどさが加わりました。そう言えばコンサート当日、あの日は薬を飲んだにも関わらず、演奏後の懇談会では咳がコンコン出ました。そう言えば弾いている時は全く出なかった。という事は・・・?



2009年3月20日(金)           「夕暮れ」

3月にしては記録的な暖かさが続きました・・・今がいったい「いつ」なのかを忘れますが、まだ春分。桜が慌てている事でしょう。

富田さんのリサイタルが終わってからそろそろ1週間が経とうとしていますが、時間の経つのは早いもので、全く実感がありません。当日は雨が降るあいにくのお天気でしたが、思いもかけずホールいっぱいのお客様がいらして下さり、舞台に出て行ってびっくりしました。本当にありがとうございました。

当日の事、えもいわれぬ不思議な余韻が残っています。というか未だ現実味がなく、「あれは夢でしょ」と言われたらまちがいなく納得できる。そんな事もあるのですね。幸せな時間でした。

「松井クラシックのつどい」で弾かせて頂くのは今回で3度目。スタッフの皆様が温かく迎えて下さり、また親身になっていろいろお世話下さり、毎回気持ちよく弾かせて頂ける事に心より感謝しております。皆さん本当に音楽がお好きでいらっしゃるのがよくわかりますし、その熱意がこの会を育んでゆく・・・素晴らしい事です。

この日の演奏について詳しくは、改めて書きます。というのは今、スイッチが入ってしまったので・・・。

「スイッチが入る」とは、やっと動き出したという事。実は、リサイタルで弾く平均律、どこから手をつけたらいいか分からなくてなかなか練習を始められなかったのです(過去に一通り、勉強して暗譜もしたので全く初めてではないですが)。この数日はバッハにとり憑かれたように、できる限りの時間、ピアノの前にいます。最近は料理もちょこちょこしていますが、そういう「人として普通の生活」以外はすべてピアノ・・・。

先週に突然、自分でプログラムを決めておきながらプレッシャーを感じ始め、きちんと練習に取り掛かる前から自ら苦しめていた感じでした・・・。いざ始めてみたら、今まで悩んでいたのが信じられない位楽しい。うまく説明できないのですが、「理屈抜きで楽しい」という事なのでしょう。ふと我に返ると3時間くらい経っているのはざら、なかなか「スイッチが切れない」。練習を終わりにしたくなくて、でも朝になっちゃうから寝なきゃ、という感じ。

今読み返してみて、訳分からないですね、ごめんなさい。ちゃんと書きたいのはやまやまなのですが、ここまで無茶できるのは今しかないので。これだけ集中して弾けるのは2年前のちょうど今頃、レコーディングの直前以来。あの時は切羽詰まっていたので無我夢中でしたが、今は純粋に楽しい、それだけで弾いています。こうやってピアノが弾ける境遇に、それよりもバッハがこんな傑作を遺してくれた事にありがとう、です。

夕暮れ時に家で練習できるのも久々かも。普段はあまり家にいないし、さらうとしたら夜か夜中。

ふと、1日の中でどの時間帯が好きだろう?と自問自答してみました。まず朝。昔はなかなか起きられなかったけれど、学校勤めをするようになってから、朝のすがすがしさが好きになりました。どんなに眠くても疲れていても気分がぴりっとするので、気合いが入ります。そして深夜。人の寝静まる夜は集中できるし、時の流れが止まっているようでガンガン練習も仕事もはかどります。意外に頭も冴え渡り、なんだかもったいなくて寝られない(という私は異常?)。でも一番好きなのは夕暮れ時。昼と夜の境目、気持ちも入れ替わります。少しずつ少しずつうつろいゆく空の色、ゆるやかな時間の流れ・・・どんな心持ちであっても、夕暮れは特別。体内のセンサーが、なぜかその時間帯をしっかりキャッチするのです。

闇が迫ってくるのを感じながらピアノを弾いていました。昔はこれが日常だったっけ。今、弾きたい時にはなかなか弾けない。こちらも「幸せな時間」・・・。



2009年3月13日(金)           「誠心誠意」

あっという間に富田さんのリサイタルは明日となり・・・もっと早くに書くべきでした。明日のプログラムはフランス近代の名曲揃いです。お時間ありましたらぜひお出かけ下さい。

最近は、学校に行っている時と別の種類の忙しさでした。どうも私の頭は、音を扱う場所と言葉を扱う場所が違うようで〜例えばこのひとりごとやご案内の文章などを必死で考えている時は、音楽の事を考えられなくなり、ピアノを弾いたりスコアを見たり選曲をしたり、そんな時には文章が浮かばなくなります。そして事務的な事、リサイタルに関する諸々やスケジュールのやりくり、それらにとりかかっている時には音楽も文章もどこかへ行ってしまいます。そこそこなら同時進行できるものの、集中できない練習は時間がもったいないし(後で全てその部分をやり直す羽目になるので)、ただでさえ頭を100パーセント使わないと書けない文章は掛け持ち状態では無理。という訳で大抵どれかに専念せざるを得ないのです(何たる不器用・・・)。

リサイタルのチラシがどかんと届く事=リサイタルまでのマラソンというスタートの号砲が鳴る事。毎年の事ですが、スタートしたら最後、当日までもう止まれない、という感覚に襲われます。ピアノを弾く事自体は本業だし、好きでやっている事なので、1日中弾く事になっても苦どころか幸せだと思うのです。ただ実際は、事務仕事、曲目解説を書く事、そして当日まで全く休めない(1日位は休んで後日補講するかも)学校の仕事、これらとどう両立させるか悩まされます。

前回の更新から今まで、書きたい出来事、考えた事はたくさんたくさんあったのですが、こっちに凝り始めたら肝心要のピアノが全くお留守になるので・・・ごめんなさい。

1つだけ、明日のコンサートに先駆けて、とあるお宅で先週ホーム・コンサートを開いて頂きました。温もりの感じられる空間で演奏させて頂け、また終演後に絶品のお料理でもてなして下さり、心地よいひとときを過ごさせて頂けました。そのお気持ちがありがたく、心より感謝しております。

時間がないのでちょっととりとめもなくなってしまいますが、明日の曲目について少しだけ。

室内楽や伴奏をたくさんやらせて頂くと、いい事もいろいろあります。「人と一緒に演奏する」。そもそも音楽は誰かと共演するもので、ピアノのソロは例外中の例外と思っています。それに、ソロではもしかしたら弾く事のなかった作曲家に出会える事も。そんな風に室内楽や伴奏でまず出会ってから、ピアノ曲も弾いてみようかなと手を伸ばした作曲家は結構多いのです。

プーランクに初めて出会ったのは大学時代、オーボエ・ソナタと6重奏曲が最初です。学生時代は管楽器と声楽の友人の伴奏をお頼まれする事が多く、そのご縁で室内楽もさせて頂けました。軽やかさ、気まぐれな程のうつろいの早さ、粋・・・。よく言われるようなそんな特徴よりも私の心に届いたのは、響きの美しさ、そして音楽の深さでした。その後、プーランクのピアノの入った室内楽作品は随分演奏させて頂けましたが、ピアノ曲はまだ1度もちゃんと弾いた事がありません。

淡い悲しみに満ちているようで、でも本当はその悲しみはどこまでも深い。夕暮れの空気のようにつかみどころのない、まるで水彩で描かれたようなハーモニー、それが悲しみを淡くみせているように思えます。プーランクには人の死を悼んで書かれた曲がいくつかあります。例えばオーボエ・ソナタは作曲家プロコフィエフへの追悼の意をこめて、ヴァイオリン・ソナタはスペインの詩人ロルカの思い出に、など。それ以外の作品にも、哀愁に満ちた旋律や突然何か堅いものがぶつかって割れるような不協和音が使われている事がよくあって、そんなところに作曲家の胸の内が垣間見えるような気がするのです。

プーランクのチェロ・ソナタの2楽章、これは直接的な悲しみに満ちた曲ではないですが、海のように深く、宗教的な何かを感じさせ、弾いていて心が鎮まっていくのを感じます。その分1、3、4楽章とのギャップが大きいのですが、それがとてもプーランクらしい、と思っています。

身近に「(何の曲でも)ゆっくりの楽章の方が断然好き」という人がいましたが、私も同感。ゆっくりの曲って、ドイツものだと(例えばシューベルトやブラームス)温かな感情が根底に流れているのを感じるのに、フランスものは表立ってはクールに聴こえる。でも心の内面ではちろちろと燃えている小さな、しかし熱い炎が存在しています。

2楽章と言えば、明日弾くフォーレのチェロ・ソナタの2番。これは演奏の機会に恵まれただけで幸せを感じる、何よりも大好きな曲です。葬送行進曲の伴奏形に支えられて淡々と音楽が進み、さすが晩年の作だけあってこれ以上削れないほど旋律はシンプル。音楽はあまり動きをみせないのに語られている言葉の意味は重く、弾く度に心が揺さぶられます。何かを葬った後の喪失感、諦めがあり、それを音楽が癒してくれるかのように・・・。

数日前に会場でリハーサルさせて頂けました。響きをつかまえ、そしてめざす響きを作り出す事に全神経を注ぎながら考えた事。練習したからと言って、それだけでは補えない事の方がむしろ多いのかもしれない・・・と。響きの問題はもちろんの事、どうやって曲の雰囲気や作曲家の想い、そして自分の気持ちを伝えればよいか。当たり前に「弾ける事」、楽譜に書かれている事をちゃんと表現するだけでも大変な事なのに、音楽という今まさに消え行く音で成り立つ作品を演奏するには、クリアしなければならない問題が多すぎる。と思うと同時に、瞬間で消え行くからこそのっけから頭で考え過ぎてもうまくいかず、そこまで考え抜く事に果たして意味はある・・・?

先のフォーレの2楽章を弾くのに必要なのは練習ではなく、心で感じる事、そのままの心で曲に向かい合う事、誠心誠意を尽くして音を出す事、これしかないとつくづく思いました。

・・・書き始めたら案の定止まらなくなってきたので、中途半端ですがこの辺で。明日弾いたら、次にまたこれらの作品を演奏できるのはいつになるだろう?いつも思う事ですが、いつも以上に強くそう思いながら演奏する本番になりそうです・・・。


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