ひとりごと(2008年11月分)

2008年11月30日(日)          「雪の魔力」

なぜか「お久しぶり」という気がします。札幌に行っていました。

洗足学園の同窓会の演奏会が札幌であり、日頃から大変お世話になっている先生の伴奏、そして先生と同窓生の皆さんのアンサンブルのピアノを務めさせて頂きました。いろいろな都合上、本番前夜に現地入り、当日は終日合わせと本番、翌朝早起きして帰京するというスケジュール。我に帰れば結構「密」な時間の過ごし方をしていたなぁと思うのですが、先生、同窓会の方々、同窓生の皆さんのお陰で大変心地よく過ごさせて頂く事ができました。本当にありがとうございました。

昼過ぎに帰宅してレッスンをしていたので、明日のドビュッシーの合わせと学内公開レッスンの伴奏の準備はこれから。一難去ってまた一難・・・。あ、誤解のないように書きますが、いろいろ演奏のお仕事が続いているもので、とりあえず明日のために自転車操業でさらって備える事を「一難去ってまた一難」と言うまで。今回のコンサートは本当に楽しかったし、こんな機会を頂けて幸せと思えたひとときだったのでした。という訳でこれからさらわなくてはならないので、ゆっくり書くのは機会を改めて。

札幌に着いてから本番当日夕方まではどぴーかんに晴れ、実に気持ち良いお天気でした。着いた時はさすがに「寒い」と思ったのですが、屋内の温かさにはびっくり(家の方がよほど寒い)。結局マフラーも手袋もホッカイロも使わずじまい。先週小樽に行った友人から「もぉ道路が凍っちゃって、普通の靴ではとても歩けなかった」と聞かされていたので、全くどうなる事やら必要以上に心配をふくらませていたのでした。こんな事ならもっと荷物をへらして来るんだった・・・と思ったら今朝はうってかわって吹雪。今年お初に見る雪、1粒1粒が本当に大きくて、結晶があの美しい6角形をしていたのには感激。空港まで送って頂いた車中から、風景と降り続く雪を飽きもせずじっと眺めていました。次から次へと降り続く雪って、過去や別世界に連れて行ってくれる魔力があります。スキー場のリフトに乗ってぼぉっとする時間も、そんな訳で大好きでした。それにしてもこの風景、このシチュエーション、懐かしく感じるのはなぜだろう・・・?

思い出しました。ヒースロー空港からロンドン市内へ向かう時、抱えていた一抹の不安。ロンドン市内からヒースロー空港に向かう時、ためこんだ疲れとさまざまな思い。かつて数回行きましたが、あの時に見て、聞いて、感じていた事と妙に重なりました。考え事をしているようなしていないような空白の時間。天にそびえたつような姿の、葉っぱのない木々。どんよりとした空の色。ひんやりとした空気。車の走る音・・・。

過去を振り返るのは久しぶりのような気もします。それ位いっぱいいっぱいになっている。今はむちゃくちゃ寝たいのですが、明日の為にこれからひとあがき。それにしても最近は本当にたくさんのいろいろな出来事があり、いろいろな方にお目にかかれました。

楽しい時は一瞬で終わってしまう。でもその一瞬の為に時間をかけ、時に苦労して準備する事に意味がありました・・・。




2008年11月24日(月)          「冬への備え」

急に寒くなり、冬が一歩ずつ近づいてきました。楓とツタの紅葉がなかなかきれい。全く自覚症状がなかったけれど、今年も余すところ1か月ちょいという事?ただただ焦ります。

寒くなると明らかに行動そのものの能率が落ちます。冷えると筋肉が固まって?動けなくなるのもあり、そもそも身軽な薄着が好きなので、それだけで冬はだめなのです。昔は暑いのより寒い方が得意だったのに、一体いつから逆になったか・・・。

この時期になると気になるもの、ハンドクリームとリップクリームとのど飴。敏感かつ乾燥肌の私には必需品です。店頭で「これは」というものを見つけたら買って試す、という訳でいろいろなタイプの在庫が家にあります。「こんな時にはこれ」と使い分けられる位なのに、ハンドクリームは楽譜に油染みがついたり鍵盤がべたべたするのがいやで、昼間は殆ど使えない。実は寝る前も塗るのをよく忘れます。

年内にあるいくつかの本番、たまたま同時期に重なりましたが、どれも楽器が違い、さらに相手が違い、当然曲も違います。今、その全ての合わせが同時進行していて、ふと我に帰れば「大丈夫?」と自問自答したくなります。勝手知ったるソロの曲とは取り組み方が全く違い、「合わせの時間が全て」という感覚。1人での練習は「合わせのための予備練習」みたいなもので、皆で一緒に演奏できるわずかな時間に全神経を集中します。「全ての音が鳴ったらどんな響きになるのか」、「皆で演奏したらテンポが変わるところはどんなタイミングで合わせるか」というような、云わば表面的な事に始まり、「ここはどんなイメージを持って演奏しているか」、「どこまでを1フレーズに捉え、どんな風にしゃべろう(=歌おう)としているか」、そして最終的に「曲全体をどんな構成で考えているか」などなど。合わせているその時間内で見えてきた事聴こえてきた事を覚え、次の合わせまでにその情報をもとに予測を立てて、1人である程度作っていかなくてはならないのです。

毎回ではないけれど通し演奏を録音し、それを聴きながらどこをどうしようか?と考える事もあります。でも真っ先に頼るべきは弾いている時の自分の直感。というのは、録音で残せるのは音(それも実際とは微妙に違う)だけだから。特に人と一緒に演奏する時、さまざまな感覚を頼りに音楽を合わせていると思うのです。音そのもの以外にブレス、そして楽器から(機能上)発せられる音も聴こえ、相手の視線や体の動きが見え、相手からのオーラを感じ、弾いている時の自分の体の状態(筋肉や呼吸)をつかみ、そこから得た感覚をもとに合わせている気がします。

ソロでもこれは同じですが、「もっと何か変えたい」、「更にいいものにするには?」、神経をそう尖らせながらいつも本番まであがいています。前回↓にも少し書きましたが、きちんと練習できていても「弾ける」段階をクリアしても、「これでいい」訳は絶対にない。「どうすべきかみえてこない」時もたまにあり、それは一番きつい。じっと耐えているしかない「冬」みたいな感じです。「聴いて頂くに堪え得る演奏」に必要なのはアイデア、そしてイメージ・・・。それさえ見つかればいろいろ試し、そして練習で出来るようにしてゆけばよいので(それだけでもないけれど)、気持ちの中では「春」が来ます。

いつも通り学校に行く以外に練習と合わせをし、本番まで全然時間がたりないのですが、何はともあれ心にゆとりを持って自分と音楽に向かい合うようにしたいものです。このところ、コンクールを受ける学生さんや入試を目の前に控えた学生さんにそんな事をよく話していましたが、実は自分が強く感じていたのかも・・・。




2008年11月16日(日)          「映像」

秋晴れも束の間、また雨です・・・。

前回「さすがに間に合わなくなりそう」と書いた事でやっとお尻に火が付き、諸々の用事を気合いで1つずつ済ませました。演奏のお仕事が珍しく暮れまでにいくつも重なり、今後1カ月程はお休みがない予定。もちろん合わせの予定はちゃんと入れてありますが、1人で落ち着いて練習できる日はしばらくお預け。気になる事がなくなって初めて心おきなくピアノに向かえるというこの性格、何とかしたい・・・。

家にいられる日くらいは「お茶したい」と思うその時にお湯を沸かし、あつあつの薫り高いお茶(紅茶だったりコーヒーだったり)を飲みたいもの。学校ではかなわぬ夢です。夏の盛りでない限り冷たいものはまず飲まない(飲めない)ので、冬は受難の季節。終日学校にいるとなると、まず朝に温かい何かを買っていくけど、全部飲み終わる前に冷めてしまう〜。マイボトルで温かいものを持参していてもそれだけでは足りないっ。いったん始まったら外の自販機まで出ていく時間もなかなかとれないもので、レッスンの切れ目と冷めない時間を計算するのも一苦労(?)。という訳で、これも冬の嫌いな理由の1つなのです(まだ秋だけど)。

前回に続いて「思いつき」シリーズ、第2弾いってみます。

ホールを借りての予行練習、学生さんの演奏を聴いて考えたのは「プロの演奏に近づくには?」。ちょっといい表現がみつからなくてこんな言い方になってしまうのですが、それはもしかしたら「音楽的センス溢れる演奏」とか「立体的で奥行きの感じられる演奏」、「神経が隅々まで行き届いている演奏」、もっと強引な表現をすれば「さまになっている演奏」とも言えるかもしれません。「きちんと練習したかどうか」と「プロに近付けている(もしくは↑を参照)演奏かどうか」は全く別物。もう1つ、「きちんと練習した」としても「本番でうまく出せる」とは限らない。

子供の頃、そして学生時代のレッスン、今は亡き師匠が「ちょっと弾かせて」と私を脇に立たせ、弾いてみせて下さるのはいつもの事でした。同じピアノなのにどうしてこうも響きが違い、またその演奏がプロと赤子くらいに全く異なるのか・・・。一体何が原因なのかを耳をダンボのように、目を皿のようにして探していた事を思い出します。先生の弾いて下さる演奏は響きが立体的、でも私が弾いてみると何の表情もつかなくてまっ平ら。同じ楽器であんな響きが出せるという事は、私にそういう音を出せる実力が備わっていないためで、音が並んでも何も表現できていないのと同じ・・・。

今でこそは出したい音をイメージする時、耳の中で音が鳴るようになりました。旋律をどう描きたいか想像すると、そのラインがまるでリボンが風になびいているようにイメージできたりします。初めてそんな風に響きをイメージできた時の感覚は忘れません。ドビュッシーのプレリュードでのレッスン、弾いて下さったその響きがあまりにも立体的に聴こえて驚いたのです。その時、瞼の裏に存在する3次元の立体的なスクリーン(って矛盾するけど)に、1つ1つの音がいろいろな大きさの球体となって、あるものは手前に、奥に、あるものは右に、左に、それぞれの球体が思い思いの高さにぴょこぴょこ浮かびあがる映像が見えるような気がしたのです。しばし茫然としていました・・・。

ピアノならではの醍醐味、さまざまな音を組み合わせて自分色の響きが作り出せる事。

強引に簡単に説明しますと、1つの「音」は音量(強いか弱いか)、そして音色(硬いか柔らかいか)の2つの要素を持っていて、「強くて硬い音」や「弱くて柔らかい音」、そして「強いけど柔らかい音」や「弱いけど硬い音」も存在します。もちろん音量にも音色にも無数のグラデーションがあり、限りないほどの組み合わせが存在するはず。それらのさまざまな音をいくつも同時に鳴らした時、そこに生まれるバランスもまた数限りなくあり、瞬時に聴こえたものを私たちは「〜な響き」と称しているのでしょうか。

「プロの演奏に近づくには?」について、でしたね。そう、ホールのようないい響きを作り出せる環境、いい楽器で弾くと、普段のレッスンでは気がつかないいろいろな事が分かります。もちろん私もそれを身をもって体験しているからこそ、こういう機会を設けるのですが・・・。広い空間の中で耳が開けるようになれば、さまざまな響き、はては沈黙(休符)も含めて自在に操れるようになり、心に余裕が生まれれば(自分の事でいっぱいいっぱいにならずに)聴き手を意識できるようになるかと思うのです。それには経験を積む事が一番(でも悪い意味では慣れてほしくない〜)。

今読み返してみて、何だかとてもわかりにくい・・・理解して頂けたかどうか全く自信がありません。もう文章を練り直す余裕はないし、でも今日の内容は消すには忍びなく、そんな訳で勝手ながらアップします。こういう話、いつもは楽譜の余白や黒板にイラスト(というものでもなく)書きながら説明したりするのですが、手振り身振りも使えないというのは不便なもの。やはり文章を書くのは難しい・・・。



2008年11月14日(金)          「プラスマイナスゼロ」

昨日は久しぶりに雲ひとつない快晴で、夜は満月がとてもきれい。足を止めてしばし眺めておりました・・・。

すっかり日が落ちるのも早くなり、気がつけば今年もあと1月半。試験期間がひたひたと背後に迫ってきているような感を覚えます。しばらく更新もできませんでしたが、その間も相変わらずいろいろな事があり、それに付随して考えさせられる事もたくさんあり・・・頭の中はいつもフル回転。人には考えるべき時があり、また行動を起こすべき時は別にあり・・・そんな事を思います。今までがむしゃらに動いてきた分ペースを落とし、疲れたら寝てしまっていましたが、もうさすがに間に合わなくなりそう。年末まではぶっちぎりで頑張らなくては。

秋に入ってからのいろいろな出来事、そこから考えさせられた事はたくさんた〜くさんあって、順序立ててきちんと書こうとするなら1週間位休みがないと無理です。という訳で、思いつきできわめて適当に書いていきます。あしからず。

現代音楽を聴かせて頂いた一夜があり、それは私にとって非常に衝撃的な体験となりました。時間的には通常の演奏会よりかなり長め、でも最後まで聴衆全員が惹き込まれたまま、しーんと聴き入っているさまは壮観でした(ホールの後ろに座っていたのでよくわかりました)。今思い出して言葉で説明するのは難しいのですが、最初から最後まで音楽を心地よく感じ、逆に集中しても聴け、また音のひとつひとつに必然性が強く感じられ、また即興のようにいましがたこの世に生まれ落ちた音楽のようにも聴こえたのです。作品それぞれが素晴らしいから?いや、それだけでは決してないはず。そんな風に聴いて頂けるような演奏、一体どうしたら近づけるのだろう・・・?

それと同時に、聴きながら音、音楽、言葉についても考えていました。そう、これは現代音楽に限らないけれど、演奏会の真っ最中に演奏そのものを堪能しながら、かつての体験や何かしらイメージを思い起こし、そこから派生していろいろな事を同時進行で考えたりする事があります。そんな事を可能にしてくれる演奏こそ、素晴らしい演奏ではないかと思うのです。あ、話戻しますが、音、音楽、言葉について考えたというのは、「人に伝えるって何?」という事。例えば音楽が頭に浮かぶ、即興で演奏する、あるいは楽譜に書きとめる、それを読む、演奏する、聴く、そこから何かを感じ取る・・・まるで言葉を扱うかのごとく。なんと奥深い作業なのだろうと思います。

あの日、現代音楽の存在がとても近くなり、その意味は私の中で更に大きくなりました。「作曲家がこの世を去って、今は楽譜しか存在しない作品」、こちらの方が断然多いのですが、「作曲者の方が生きていらして、直接作品についてお尋ねできる(かも?の)作品」に出会える事が楽しみになってきました。未熟者の私には、演奏する事自体に困難が待ち受けているとは思いますが。しかし今思い起こしても、価値観ががらりと変わった驚くべき瞬間でした・・・。

いろいろ練習しなければならないものが積み重なり始めています。はた目には几帳面な性格にみえるらしいのですが、実は決められた予定をこなしていくのはめちゃくちゃ苦手。考えただけでもうくらくらしてきます。最近ある学生さんと話した時、「練習はきちんとその日にやる事を決めておいて、それをこなせたら安心、こなせなかったら不安になる」と言っていた事にびっくりしたのです。そんな事していたら疲れない?と。私の場合は音楽と同じく「プラスマイナスゼロ」の発想で、ひそかに逃げ道を作っています。毎日の事を決めるのは無理だけど最終的に帳尻は合わせられるので、そこそこ几帳面に見えるのでしょうか。

ちなみに「プラスマイナスゼロ」の発想とは、本来かかるべき時間の中で多少の伸び縮みを繰り返し、最終的にはプラスマイナスゼロにするという発想。メトロノーム的にかっちりかっちり1拍ずつ正確なテンポを刻んでいくのではなく、時にはせいて先に進み、時には歩みを遅くし、でもゴール地点は一緒。音楽上では、特に誰かと一緒に演奏する時に必要な感覚なのですが、もともときっちりとしたテンポ感が体内に宿っていてこそ可能な、上級編テクニック(?)なのです。

音楽では1フレーズの中、先に進んだ分あとでゆっくりしてプラスマイナスゼロにする事が多いのですが、どうも最近の生活では始めにゆっくりし過ぎて後々ハイペースでつじつまを合わせるばかり。「今日できる事は先に延ばさない」がモットーだったのに、睡眠不足が堪えるようになり、反面やらなくてはならない事が増え、それでも1日は24時間のまま。何とか間に合っているからよいものの、ちっとも懲りていない・・・。


 過去のひとりごと1へ
 ホームへ

ピアニスト石田多紀乃 オフィシャル・サイト
http://takinoishida.com
メールアドレス mail@takinoishida.com
本サイトの内容の無断転載・複製は固くお断り致します。
Copyright (c) 2004-2020 Takino Ishida
All Rights reserved.