ひとりごと(2007年11月分) |
2007年11月30日(金) 「カブのスープ」 今日で秋も終わり。寒暖の差が激しいせいか、学園内の紅葉がびっくりするほどきれいです。例年「ここの秋の眺めは紅葉狩りに匹敵する?」位に思っていて、ホール前の広場は色とりどりの樹々・・・。その前を1日何回も往復して練習棟へ通う学生さんは、卒業してからきっと懐かしく思い出すんだろうな。中庭にも毎年必ず真紅に染まるお気に入りの楓が1本あります。ただ残念なのは、ゆっくり眺める時間がない事。今は朝、遠回りをして紅葉を見てからレッスン室へ向かいます。桜もそうだけど、最高に美しい一瞬をそのまま留めておく事が出来ないからこそ、その一瞬を愛でる気持ちが生まれる。それにしても自然はやっぱり凄い・・・。 最近寒くなってから、やっと美しい入り日が眺められるようになりました。「あの色あい、何かで見た事がある」と一生懸命考えていたのに思い出せず、今書いていて、「そっか、紅葉の色だ」と気付きました。しかし今日はあいにくの冷たい雨・・・。 締め切りが迫っているので、さらっと書ける日常的な事を。 学校へ行っている日は食事がどうしてもおろそかになるので、余裕のある時はちゃんと作って食べたいと体が要求しています。と言ってもそんなに時間がないので簡単なものばかり。せっかちなので出来る時に同時進行で、何品かまとめて作ります。寒くなってきて、温かなものを食べたいとなると思い出すのがカブのスープ。本当に簡単で、でも美味しいです。 カブは皮ごと使うのでごしごしと洗う。葉っぱの根元を少しだけ(1センチ位)残して切り、葉っぱも捨てずに残しておく。カブの本体は大きければ縦に放射状に8つ割り、小さければ4つ割りにする。オリーブオイルを熱してカブを炒め、そこに小さく切ったベーコンも入れて香りを出す。カブが微妙に色づいてきたら水をひたひたになる位に足して、コンソメも適量入れ、火を通す。その後牛乳を適量入れるが、牛乳を入れると吹きこぼれやすくなるので弱火に(という訳で牛乳を入れる前にある程度火が通っているように)。カブの葉っぱは必要量、1センチ位の長さ?にざくざく切り、根元に近い方は火が通りにくいので早めに投入、葉っぱの先の方は火が通り過ぎると色が褪せるので火を止める間際に入れる。塩コショウで味を調え、出来上がり。 何かで目にしたレシピが元になっているのですが、レシピは読んだら大体の感じを頭に入れてそれっきり。ふとした時に思い出し、見ながら作る事はまずないので、いたって適当なのです。さっき作ってみましたが、やはり冬はこれに限る。カブを皮付きのまま使ったのは今回初めてですが、作った自分が皮付きである事を忘れている位やわらかくなっていました。逆に皮をむいてつくるとカブの身が溶けてしまうのです。カブの葉っぱのあの味(大根の葉とも違う、ちょっとカルシウムっぽい味?)も入る事によって味の調和が取れます。結構な量入れたのに物足りなく、もっと入れてもよかったかも。牛乳は、振らないと上部にクリームが浮いてくるノンホモジナイズドを使っているのですが、牛乳メインのスープには成分無調整のものなどお勧めです。 これと似たものにカキのスープがあります。気をつける点は殆ど同じ。カキは少しの白ワインで軽く蒸し、蒸したワイン(蒸し汁)もとっておく。玉ねぎを多めに(スープの味のベースになるので)みじん切りにし、オリーブ油で炒める。軽く色づいたら水を入れ、蒸したカキと蒸し汁も入れ、コンソメを入れて煮る。それから牛乳を適量加えるが、ワインの分量によっては分離?してしまう恐れもあるし、吹きこぼれにも注意しなければいけないので、様子を見ながら少しずつ加える。色味がさびしかったら青いもの(カブの葉、浅葱など)をぱらりとし、熱を通す必要のあるものは早めに入れておく。塩コショウで味を調えたら、出来上がり。クラムチャウダーのカキのヴァージョンという感じ。これも熱々をはふはふと食べると美味しいです。 締め切りがあっても練習が間に合わなくても、なぜかこういう事は削れない(で夜中に真っ青に)。多分息抜きとして必要なのでしょう・・・。 2007年11月28日(水) 「掴まえる」 毎月おなじみの「続けて更新」です。 院生の室内楽のコンサートを聴いてきました。朝一の授業からずっと学校にいたので結構疲れはたまっていたのですが、気持ちよく家路につきました。舞台の上でも既にそうだったのですが、終演後に楽屋を尋ねたら皆キラキラして充実した表情をしていたので。 あるグループには、本番数日前に演奏を聴かせてもらいました。よく弾けていると思ったものの、どんな風に聴いて頂きたいのか、また作品にどうアプローチすべきなのか、そのあたりに迷いがあるのを感じました。私自身全く知らない曲で、しかもその時初めて楽譜を見たのでその場の思いつきでしかないのですが、もし私だったらどんな事を考えてどういう表現を目指すか、偉そうにちょこっとだけアドバイスさせてもらいました。そうやってとっかかりができれば、皆で考えて本番までに仕上げてくるはずと思ったまで。 その本番、皆まるで別人。さわやかに吹く風に身をまかせられるような自然な演奏で、また各楽器の個性を生かしつつもお互いが遠慮をしていない、いいアンサンブルになっていました。たった数日しかなかったのにこんなに変わるんだ〜とは私がびっくりさせられた事。「ここまで表現してもいいんだと思えたので」だそうですが、ちょっとした意識の持ちようがそんなに演奏を変えるものなのですね。偶然や小さな勇気が演奏を変えていくんだろうなと、そんな事を思いました。 別のグループ、メンバーに先生が入って下さっていますが、こちらは本番で聴くのが初めて。初めの1音を出すまでにもいろいろな事がわかってしまうものですが、舞台に現れたその瞬間から空気が変わるのが目に見えるようでした。音楽が始まったら聴こえてきたのは隙のないゆるぎないアンサンブル、でも皆が対等に生き生きと音楽のおしゃべりをしていたのです。度肝を抜かれたのは、先生と学生さんという立場の違いが(いい意味で)演奏に全く表れていなかった事。学生さんよりはるかに長い音楽経験を積まれている先生が目立ってしまう可能性が普通高いはず。先生が決して妥協されないで室内楽としての表現をとことん突き詰められ、そして学生さんもその要求に応えようと必死に向かったのではないかと、勝手に想像しました。そこまで学生さんを信じて潜在力を引き出した先生の懐の深さには頭が下がりましたし、学生さん達は何とも形容しがたいちょっと照れくさそうな、でもしっかり何かを掴まえたような小さな自信に満ちた表情をしていた(ように見えた)のでした。 「寝食を共にする位合わせて」とおっしゃった先生のお言葉通り、室内楽に夢中になっていた学生時代がありました。その時大変生意気にも思ったのは、時間的制約のあるようなプロの方々より暇のありあまっている学生の方が、もしかしたらいいアンサンブルができるのではないか?という事(今はもちろん撤回しますが・・・)。皆のキラキラした表情を見ていて、その2つの美味しいところからいろいろ学び、長い人生の何かを変えるきっかけにしてゆくんだろうな、と少し羨ましく思いました。 また長くなってしまいましたが、結論「室内楽は音楽も人も育てる」。私自身ソロより室内楽や伴奏で育てられたようなものなので。それに音楽は基本的に誰かと一緒に奏するものだから。そして長い時間育まれてきた伝統があり、人から人へと伝えられてゆく。その過程を垣間見たような気がします。いつもと違って、客席から音楽に携われている幸せを感じたひとときでした・・・。 2007年11月26日(月) 「空っぽ」 いつの間に木枯らしも吹き、師走ももうすぐ。またもやお待たせしました。この寒いのに、今はツワブキとビワの花が満開です。しかし今咲いて、半年もかけてじっくり実をつけるビワもえらい。 お陰様で、非公開のミニ・コンサートもフォーレの東京公演も無事に終わりました。いらして下さった皆様、ありがとうございました。かれこれ1週間(?もっと経った気が・・・)も経つのにごめんなさい。これらコンサートについて書きたい事はたくさんあるのですが、ちょっと今は時間がないので改めて書かせて頂く事にします。 そう、気がつけば秋ももう終わる。今年は本当に秋が駆け抜けていった、そんな感じです。今年の(私にとっての)大きな演奏会は終わり、ふと振り返ればいろいろなものを弾いたなぁと、まるで他人事のように思い出しています。今だから言えますが、今回は正真正銘のいっぱいいっぱいの状態。普通の神経だったら怖いと思うような状況だったはずなのに、怖いどころか必死で何も考えていませんでした。寝ても覚めても「練習しなきゃ」と頭のど真ん中で思っているので、寝る前に練習、寝てもどうも寝た気がしない。学校へ行けばスパッと切り替わるのでまるで二重生活。不器用な私がよくやっていたとつくづく思います。先週のコンサートが終わったら、もう振っても叩いても何も出てこない位空っぽになっていました。 この2年ほどいつも思っていたのですが、何か刺激になるものをとり込まなければつぶれてしまう・・・。いろいろしたい事の候補の中でまず思ったのは、「日帰りでもふらっとどこかへ行きたい」。でも冷静に考えれば1日空けるのも無理。大学が入試でお休みだったので、高校の朝一授業を終えた後、美術館へ行こうと思い立ちました。絵をゆっくり見るのは久しぶりの事。高校大学の頃は、どこかで特別展が開かれているとあらば、行ける限り足を運んでいました。今はあぁ行きたいと思いつつ逃した展覧会は数知れず。たまたま行けそうな日は休館日だったりする事も多いのです。 体力が続けば美術館の「はしご」をしようと考えつつ、上野へ向かいました。最初に訪れた美術館では1人の画家に絞ってその変遷をたどり、次に訪れた美術館はそれぞれの画家の作品からから数点ずつ、その特徴が分かるようになっていました。館内に足を踏み入れた途端目に飛び込んできた迷いのない強い色彩、求めていたのはこれだと気付きました。うまく説明できないけれど、乾いていた感性が少し潤った気がする。当たり前ながら「本物」の放つエネルギーはすごい効き目がありました。 その日はともかくと、その後気が抜けて更新をサボっていた訳では決してないのです。とにかく演奏会が済むまで封印しておいた事があまりに多くて〜。荒牧さんのCD、録音の事をまだちゃんと書いていなかったというのに、年内に発売される模様。片や私のCDは最終段階、最後(になるであろう)のヴァージョンを聴いてチェックし、録音当日の写真から候補を選んだのはさっきの事、曲目解説プラスアルファの締め切りは今月いっぱい。 中身のある事が書けないけれど、とりあえずもう寝ないと・・・。 2007年11月12日(月) 「納得」 11月に入って大分経ち・・・ご無沙汰しております。すっかり寒くなり、さわやかな青空も遠のき、冬の近さを感じさせられる今日この頃。 お陰様で、伊賀さん青木くんとのフォーレの三島公演も無事終わりました。今回もたくさんのお客様がいらして下さり、ありがとうございました。考えてみれば、このメンバーでのシリーズもかれこれ7回目、本当に早いものです。ただ残念なのは、7回も三島に来ているのに富士山を拝めない率がなぜか高過ぎ。天気予報では雨!だったので「また〜?」と憂鬱でしたが、三島に来てみればラッキーな事に雨は上がっていました。帰り際には雲の隙間から少し青空が覗いていましたが、それでも富士山は見えず、帰宅すればまた雨・・・。 話がそれました。今回も舞台で弾きながら、いろいろな事を感じていました。楽譜に書かれた、つまり「紙の上の記号」でしかない音符が音となり、そして音楽となって客席へ流れていく。その(意味の)重さ、尊さ、はかなさなど。と言うのは、「ヴァイオリン・ソナタ2番はフォーレ自身大変気に入っていたが、再演を望んでいたにも関わらずなかなか演奏されなかった」とCD解説で読み、それが鮮烈に心に残っていたからでした。そして、楽譜を初めて開いた時から本番までこんなに心持ちが変わったのも初めて。1週間後の東京公演までに更に変わるであろう事も分かります。 今回のプログラムのメインは、79歳まで生きたフォーレ晩年の最高傑作3曲。どれも作曲されたのは70歳を過ぎてからで、これに向かい合うには当然ながらまだまだだと痛感しています。春に録音したシューベルトの最後のソナタ、あれはシューベルトが31歳で生涯を閉じる直前の作でした。その年齢を既に超えてしまった事もあって、何となくもう弾かせてもらってもいいかなと思えたりもするのですが。ただ、今回のフォーレ、弾く事自体も作品を理解するのも難しいとは思ったのですが、なぜか音と音の間に垣間見える人間フォーレの部分には度々思いを馳せる事ができました。これが例えばベートーヴェンだと恐れ多くて、それさえもしてはいけない風に思えたり(あくまでも私の個人的な感情ですが)・・・。 そして舞台の上で「!」とひらめいた事。フォーレは「歌」の作曲家だと。もちろんそれは元々言われていた事ではありますが、実感として胸に迫ってきたのは本番真っ只中の事だったのです。こんな美しい旋律があちこちにちりばめられているのに、あぁもっと歌わなくてはと強く思えたのでした。 先週1週間はかなりハードで、学校もいつもと変わらず行き、ホールでのリハーサルがあり・・・1日家に居られる日がありませんでした。風邪からは何とか逃れていたものの、疲れはピーク。もうちょこっとだけでも余裕があったら、「1日だけ思い切ってさっさと寝よう」と思えたのに。ちなみに学生さんにはいつも偉そうに言っています。「集中できなかったり体調が悪かったりする時は、勇気を持って練習を休むべし」。いくら練習がうまくいっても、本番のコンディションがよくなかったらどうしようもないからです。でもさすがに今回は1日でも練習を休んだら間に合わないと思ったので、「寝たい・・・」という誘惑を断ち切って夜中までピアノに向かいました。 でもそれで正解。だんだん納得ゆく練習ができてきて気持ちが上向き、それと曲が飲み込め始めた時期が一致したのか、落ち着いて本番を迎えられました。しかし未だに自分でもよく分からない。本番までどんな練習をし、どのように過ごし、何を考え、という事、そして本番での精神状態、この2つの関連を解き明かすヒントはまだ見つかりません。これが分かるくらいなら誰も苦労はしない筈・・・。 気持ちがずっと張り詰めていたので、昨日はスポッと抜けました。ピアノも弾かないつもりにしていたのに、なぜか突然フォーレのピアノ曲が気になりだし、全集をとり出して聴き、何曲か弾いてみました。高校生位から好きでよく聴いていたものの、いざ初見で弾くとなると何かこう掴みにくくて断念していたものが多かったのです。特に後期の作品。それが今、すんなりと音符が目に入り、気持ちに抵抗なく弾けるようになりました。何だろう、この変わりようは? 世の中いろいろな方がいらっしゃると思うのですが、多分私は自分の中に見えてくるものがなければ弾けない性質なのです。作曲家の表現したかったものとか、ハーモニーの連結とか、どのように練習してどう仕上げてゆくかとか、何でもそう。自分の心とピアノを弾く事はシンクロしていて、納得できない限りは気持ちも指も動かない気がします。 レッスンを受けてアドヴァイスを頂けるというのは本当にありがたい事で、それは学生の特権。今は弾きながら、第三者の耳を装って自らの音を聴き、自分が先生になったつもりでどうすべきかを考える。何のアイデアも方向性すらも見えてこない時ほど辛い事はなく、やはり弾くのがきつくなるもの。しばらくそうやってあがいていると本番直前になって光がさし、諦めなくてよかった〜と思える、そんな瞬間が好きです。レッスンする時は、言ってあげられる事は一体何だろう?と、最初に通してもらっている時に必死で考えていたりするのですが、それも責任重大・・・。 ゆっくり考える心の余裕がないから簡単にご報告を・・・と思ったら、またこんなに長くなってしまいました。詳しくは東京公演が終わってからまた。今度の日曜夜の東京公演、ぜひお出かけ下さい。 と、ソロの練習をしようと思っていたら忘れた・・・。 |
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