ひとりごと(2006年8月分) |
2006年8月31日(木) 「ロングトーン」 あの後学校へ行ってから、いろいろな事が動き出しました。新学期の始まる前というのは、とにかく決めなくてはならない事、思い出さなくてはならない事がたくさんあるのです。そんなこんなですったもんだしている中、昨日今日とリハーサル。場所も違うことだし、昨日録ったものをチェックして気付いた点を練習したいけど、今日のリハーサルまで時間が足りない・・・。 昨日、その帰り道、ターミナル駅のまっすぐ歩けないような人ごみの中で、思いがけず友人に会いました。たまたまリハーサルをほんのちょっと早めに切り上げてきたのですが、駅では待っていた電車にすぐ乗れて、たくさんある改札のひとつを選んで出て・・・とかいろいろな事を考えると、よりによって会えたなんてすごい偶然!と思うのです。信じられないような場所で信じられないような人にばったり会う事が多いけれど、これって・・・? さて、前回の項を読み直してみて、これでは「高山で何してきたの?」が全く分からない、と自分でも思いました。ただ誠に勝手ながら今それを書いていたら練習ができなくなるし、仕事の概略は大体昨年と同じだと思ったので、どうしても気になる方は、ひとりごとの2005年8月30日「飛騨高山での仕事」を読んで頂ければと思います。横着ですみません。でもせっかくなので、今回の講習会で考えた事を少し。 今回はずっとチェロのクラスの伴奏で、お二人の先生のクラスを1日毎に代わりました。発展途上まっさかりという学生さんの割合が多く、そのためレッスンはテクニック的な事にもかなり及びましたが、それについて先生方のなさる説明が実に分かりやすく、ピアノの私でさえ「ふぅん、なるほど!」と納得できたのです。 お二人とも同じような事をおっしゃっていたのが印象的でした。その先生の学生時代についていた先生が「テクニックは自分に合うものを自分で探す」という主義でおられたり、またあまり詳しく教えて下さらなかったりで、ご自身で必死に考え、先輩に尋ね、そうやってご自分のテクニックを見つけられたとの事。もちろんテクニックは音や表現の実現に必要不可欠なだけで、レッスンの最中にはどちらの先生も「音色を探して」「音を創って」と連発されていました。 ピアノはとにかく楽器のサイズが大きい。だからと言って、(ピアノに比べて)小さな楽器に取り組む姿勢と何ら変わりはないのですが、でもちょっとだけ思いました。楽器が小さければまるで自分の手のように自由に扱う事が可能で、楽器とも密接な関係が築ける、と。お手本に弾いて下さる先生の演奏を聴いていると、音楽も楽器も自由に呼吸をしているようだし、腕の延長のように楽器を自在に操っていらっしゃる。当然、楽器を鳴らす為に楽器の構造や体の使い方を、徹底的に追求されています。特に右手、弓の速さ、圧力のかけ方、分量、返す場所・・・。果たしてピアノに対してどれ位楽器の事を知っていて、そして自分の体の扱いについて研究しているか、ちょっと考えさせられてしまいました。 管楽器でロングトーンの練習をするという話はよく聞きますが、弦楽器でもやると聞いてふと思いました。これはピアノだったらいったい何の練習に相当する? 当たり前ながらピアノの発音の仕組みは打楽器と同じ。だから音がぽ〜んと出たらその後どうする事もできないけれど、そこで諦めるのは早い。大切なのは音を創る瞬間で、「ピアノなんて猫が歩いたって一緒」なんて言われてはいけないのです(猫に恨みはありません、念のため)。鳴った後にふくらむ音は理論上無理でも、ピアノ曲の楽譜で長い音にクレッシェンド(音をだんだん大きく、の意)を書く作曲家はたくさんいる。その要求がある限り、ああでもないこうでもないと音の出し方は考えないといけないと思うのです。結論から言って、厳密な意味で音をふくらませることは不可能でも、音の最初の立ち上がりや音の出るタイミングを加減する事で、「いかにもふくらんだように」聴かせる事は可能です(と信じたい)。 もう一つ大切なのは音の切り際。指でどうするかはもちろんの事、たいていの場合ペダルを使うので足の調節をどうするか、この二つの兼ね合いで決まります。音がどのように延びるかは楽器任せでも、音を切る時は思いのままにできるというこの矛盾・・・。でも音の切り方ひとつでさまざまな表情がつけられるのです。ただそれだけペダルの踏み方に凝ると、足の疲れは相当なもの。右足に偏って酷使しているので、太ももやふくらはぎの太さからして違うのです。 という訳で、もしかしたらピアノでもロングトーンの練習ってできるような気がする。真面目な話、必要だと思います。練習室からピアノの同じ音をぽ〜んと延ばしているのが聴こえたら、「感心感心、音の出し方と切り方の追求をしているのね」と思って頂けたら幸いです。今日のリハーサルでも試してみよう・・・。 2006年8月28日(月) 「静寂」 高山から戻ってもうすぐ1週間・・・。 やっとやっと練習に集中できるようになりました。帰ってきてからしばらくは留守の間の雑用に追われていましたが、この際他の事は振り切ろうと決めたまで。今いろいろな想いが頭の中をめぐっています。でもそれを言葉にするのが難しい時もある。それで更新が滞ったというのは体の良い言い訳かもしれませんが、ごめんなさい。 来週から新学期始動!週3日、往復3時間通勤がまた始まる。という訳で、恐らく来週は体がついていかなくて激疲れするでしょう。まともに練習できるのは今週だけなので、それでお尻に火が点きました。 さて、高山は今回で5度目になります。何度来ても飽きるどころか、その居心地の良さにどっぷり浸かっていくような感を覚えます。山が見え、街の真ん中に川が流れ、歴史のある街のたたずまいに魅かれ、伝統に培われた工芸品や美味しいものであふれ・・・仕事での滞在とは言え、本当に幸せな事です。 普段息をつく間もないようなあくせくした時間の流れに身を置き、そんな自分を省みることもなければ(もしふと考え込んでしまったら怖くて何もできなくなると思う)、必要以上に過去を振り返る事もしない。そこに疑問を投げかけてみる機会にはなったと思います。前回「時間貧乏性」の話を書きましたが、やはり街の雰囲気に呑まれました。ソロの曲を1回も弾かないのはさすがに怖いと思ったので、1時間のお昼休みを自分の練習に当てましたが、時間にガツガツしていたのは(?)その時くらい。仕事を離れればゆったりした時の流れにシンクロして、気持ちもほどけていきました。 バスで高山に向かう時に目にする「これぞ日本の原風景!」があり、それに出会えるのを毎年楽しみにしています。うっかり爆睡してしまう事もありますが、初めてそれを見た時は感動し、そして懐かしい気持ちになりました。帰りのバスでは、来年までしばらく見ないであろう緑に覆われた風景を、しっかり目に焼き付けています。 昔のままに残されている街並みを散歩するのは大好きなひととき。人の殆どいない朝や夜の方が風情があります。昼間お店めぐりをした際はついつい建物の内部にも目が行くのですが、高い吹き抜けのある独特の構造(何て様式?)、あめ色になるまで使い込まれた、大木の樹齢が分かるような輪切りの1枚板の踏み台・・・長い長〜い時間それを守り続けてきたたくさんの人々の事を思いました。 こういうところで講習会が行われる事にも大きな意味がある、そんな気がしてきます。そもそもクラシック音楽は、100年200年300年と時代の荒波を超えて伝わってきたもの。その間に変わってきた事ももちろんあるけれど、基本的にはそれらを守り継ごうというスタンスの下に現在残っているのであって、初めからそれを根本的に変えてしまおうとしたら、跡形もなく近い将来消え去ってしまうかもしれません。新しいものを生み出すには想像もつかないような大変なエネルギーが必要でしょう。ただそれは今までに存在した物があってこそ、それらに反発したり乗り越えようとした結果生まれたもの、という見方もできると思う。 今回伴奏していたクラスのチェロの先生からもたまたまそういう話が出たのですが、守るべきものを守って伝えてゆく事は大切・・・と。楽譜に書ききれなかったそれ以上の想い、つまり作曲者の生の言葉は、演奏者によって代々受け継がれてゆく。そんなお話でした。そして、古いものと新しいもののせめぎ合いにこそ意味がある、そんな事を散歩しながら考えました。 帰ってきてからの話。今のように練習にゆとりを持って臨むのは、滅多にできない事。時間をひねり出して練習している時は練習そのものが目的になってしまうようで、自然に自分の中から湧き出てくるものを待つ時間もない。今のように余裕があれば、作品について、作曲家について、はたまた一見曲には直接関係なさそうな自分の事について考えていたりします。また普段はあまり聴くこともないCD、今弾いている曲のさまざまな録音をじっくり味わっています。 「普段CDをあまり聴かない」というと誤解されそうなので、一応釈明しておきます。仕事を離れたらとにかく音のない静寂なところに居たい。1日中(手よりも目よりも)耳を酷使しているし、とにかく音が存在すれば追って分析してしまうので・・・多分同業者の方は皆さんそうだと思います。それと現在弾いている曲、近々弾く予定になっている曲はなるべく聴かない。というのは、そのピアニストの歌い回しやテンポなど、いろいろ無意識の内にコピーしてしまうから。聴くとしたら自分の演奏がほとんど固まってからで、それも1回だけ集中して聴きます。 昔これでびっくりした経験があるのです。いつものようにリサイタルで弾く曲、大体弾けるようになってから或る往年の名ピアニストの演奏を聴きました。それはショパンの曲だったのですが、あれだけいろいろな解釈やルバート(テンポの揺れ)の許される曲なのに、私と演奏が妙に似ている。すごい偶然もあるもの、こんな素晴らしいピアニストと一緒だなんて・・・と一瞬思いましたが、いや、待てよ・・・そうだ、このピアニストの演奏、そういえば中学生の時に夢中になって何度も何度も聴いたっけ、と思い出したのです。つまり偶然ではなく、体がその演奏を覚えてしまっていたという訳。それからです、迂闊に繰り返し聴くものではないと戒めたのは。その時のショパン、もちろんその後自分なりにもう一度演奏を考え直したのは言うまでもありません。 何かで聞いた話ですが、脳味噌は1回経験した事をしっかり思い出して再現する、ものすごい能力があるそうです。例えば本番でのミスタッチは、大抵1ぺんいつかどこかでやらかしてしまった事の再現とか。それを聞いてから、練習では意味のないミスタッチは絶対しないように注意しています。耳も同じで、うっかり1度間違えて弾いた音をしっかり記憶してしまい、なかなか消せなくて苦労するのです。余談でした。 基本的には映画や小説なども同じで、何度も繰り返し見たり読んだりはしないタチ。1回目の強い印象を大切に持ち続けたいし、2回目は筋が分かっているからこそせっかちな私は端折ってしまう。CDもそう。何でもすぐ廃盤になってしまう現在、今買わないと無くなってしまうという思いにかられて、「めっけもの」はその場で買う習慣がついています。あんなに素晴らしい演奏家の録音が山ほど積んであるにもかかわらず、とても聴ききれない。だから「1回」だけ聴くのは大切な時間なのです。 TVで「思い出の名演奏」という番組があり(多分月1回)、昨晩はちょうど今練習している「ダンテを読んで」を偶然聴く事ができました。ベルマンという昨年亡くなった、古き良き時代を伝える名ピアニストです。生で演奏をお聴きするチャンスはなかったのですが、初めて見る映像に釘付けとなり、その演奏に引き込まれ、終わってからしばらく呆然として動くことができませんでした。どんな演奏だったか、またどういう感情を抱いたかを説明するのも難しいけれど、何と言うか作品の存在そのものも然る事ながら、彼の人生の重み、発せられる力のようなものを演奏から感じさせられ、それはそれはすさまじい演奏でした。それと同時になぜ一度も生で聴かなかったのだろうと、今更ながら後悔・・・。でもしっかり心と頭に刻み付けました。 それと同時に、自分の演奏が薄っぺらいという事実を改めて突きつけられたようで、一瞬音を出すのがいやになりました。次の瞬間「だからこそ時間がない!」と思いましたが、表現したい事が増えたのは嬉しい。 冒頭の文章にもつながる話なのですが、表現する事と伝える事は同義語だなぁと気づきました。誰にも伝えなくていい、自己完結でいいと思ったら、伝える内容や表現手段を考える必要はないから。私は音楽と言葉しか表現手段を持ち合わせていませんが、頭の中や心の中に渦巻いているこの何かをしばらくうやむやにしたままでいられたのは・・・?今ここでこれを読んで下さっている皆さんに、そして9日に演奏を聴きに足を運んで下さる方々に伝えられるよう、そろそろ自分の中でまとめてゆかなければ。 久々につらつらと書いてみました。結構練習に集中できていたのに、これでピアノ・モードもどこかに吹っ飛んでいっちゃった〜。でもこれも大切な事。少し頭がすっきりしました。 今日は学校で後期のガイダンス。ついに休みも終わりです・・・。 2006年8月17日(木) 「冷え」 世の中、お盆休みで非常に静か。電車も空いていて嬉しい・・・と思っていたら、そろそろ人が都会に戻って来つつあります。気がつけば8月も半分終わっている。果たして今年の夏は堪能できた?答えはノー。 例年伴奏をお手伝いしている講習会がお盆明けに始まり、それが終われば学校関係の事が動き始める。何せ9月すぐ新学期が始まるので、それに付随して事務的な事は8月終わりから連絡がいろいろ来るのです。という訳で、私にとっての夏休みは8月前半。いつもだと休みにしかできない事をガタガタとやりつつ、暇さえあればぼぉっとしている内に前期の疲れが取れてくるのですが、今年はイマイチ。 焦って練習しなくてはならないのに、夏バテしていて全くはかどらないと思っていたら、ここ数日は台風の影響で凄まじい湿気!夏バテを何とか解消したのに湿気のせいか変に冷えて、体もあちこち凝っています。講習会の間は自分の練習は全く出来ないので、これではさすがにまずいと思ってあれやこれやとあがいていました。 昼間はいつも30度超、夜は熱帯夜の連続記録更新・・・みたいな猛暑でも、冷える体質なので極力冷たいものをとらないようにしています。今年はいつもより涼しいので一層冷える感じ。家ではクーラーはなるべく使わずドライにしていますが、それも敢えて止めました(ピアノの機嫌が悪いけど)。漢方の先生から「しょうがで体を温めて」と伺ったので、この数日はしょうがの蜂蜜漬けを作って食べてみたら効き目がありました。しょうがをスライスして隠れるくらいの蜂蜜をかけるだけ。何日も待ったらいいのかもしれないけど、とても待てないので数時間。そのままかじったり(数時間ではまだ辛い?けど私は気にならないので)、紅茶に入れてジンジャーミルクティーにする(もちろん最後に食べてしまいます)。しょうが湯の夏版というところでしょうか。 食べ物飲み物は熱くする、暑い日も必ず湯船に浸かる、寝る時もちゃんと薄がけかけて喉元を温める・・・私の体質ではそれを守らないと、調子が崩れるようです。やっと少し体が温まって来ました。 これも漢方の先生直伝ですが、練りゴマと蜂蜜を混ぜたペースト。これは疲れに効きますが、ゴマが好きなのでジャム同様なめています。そして汗をかいた時は自然塩を少し(耳掻き1杯よりも少ない位)。精製塩ではなく、あくまでも自然塩。微量ミネラルが大切なのだそうです。同様に黒砂糖も体にすぅっと吸収されるような気がします。 ピアノを弾いていて体がみしみしいう気がする時は、鶏の軟骨唐揚がてきめんに効きます(何の成分が効くのか分からないけど)。それよりも、練習の前に横着せずストレッチ等する必要あり。まだ暑い季節だからいいけれど、だんだん無理がきかなくなってきたという自覚があるので、筋肉や腱を傷めないように・・・。 授業期間中は手をつけられなかった雑務の数々を気合いをいれて片付け、普段あまり時間がとれないプライベートの方のレッスンをし、そんな事をしていたら日が全然なくなってきて、この数日は頑張って練習・・・という間に私の夏は終わりそうです。 さて、講習会に行くにあたって荷物を詰めていたのですが、もうこれが本当に頭痛の種。綺麗にキャリーバッグにパッキングして、必要なものを必要なだけ持っていくという自信はあるのですが、それをあちこちから集めてくる(大げさ?)作業がとにかく面倒なのです。帰ってきてから片付ける時は手早くパパッとできるのに。 その原因は時間貧乏性のせい。仕事で行くのだから当然なのですが、レッスンやコンサートの為のリハーサル、本番などスケジュールが分単位でびっちり決まっていて、会場の移動なども伴います。何かを忘れたからと言って現地調達する時間もなければ、体調を崩しても誰かが代わりに伴奏してくれる訳でもないので、何があっても大丈夫なように何でもかんでも持っていったりしてしまう。こんなシチュエーションには何が必要?なんて考え出したらキリがなく、探し物を始めたら結局大掛かりな片付けをする羽目になって、しっかり大汗をかきました。という訳で、準備は非常に億劫なのです。 例えば、たまたまふっと空いた時間をぼぉっとするのも嫌で、ピアノがもし使えたらさらえるようにと楽譜を持ち、ピアノが使えなかったら本を読もうと文庫本を入れ、もっと時間が空いたら街まで歩こう・・・と。実際はいつ急に呼び出されるか分からないので始終ケータイを気にしているのですが、それでもやっと最近は慣れていろいろ楽しめるようになりました。 なんて書くと大変な事をしているようですが、これも小心者の為せる技。例年一緒にお仕事をしているピアニストのお仲間は信じられない程「器が大きい」ので、ちまちまと小さい事を気にしている私は「・・・」。ちょっとしたアクシデントはつきものだけど、一緒に行動していると唖然とさせられ、感心させられ、納得させられ、結局大した事なくクリアできている事も度々。いろいろなタイプの伴奏者がいる事にもきっと意味はあり、正反対の性格だからこそちょうどいいようにバランスが取れている、なんて思う事にしています。 自分で言うのも何ですが、友人からかばんの中身を頼りにされる事も多いのです。「絆創膏持ってる?」「爪切り持ってる?」「切手持ってる?」。ドラえもんのポケットじゃないんだから・・・。 2006年8月14日(月) 「2006リサイタルの回想」 残暑お見舞い申し上げます。 前回の更新は梅雨明け直後。「暑さが足りなそうな予感がする」と書いたら、いきなり夏らしくなりました。視界が白くなるような強い日差し(光に弱いので)、真っ青な空、朝からやかましいセミの鳴き声、早起きして見る朝顔の瑞々しさ、何だか嬉しいです。夕暮れ時の薄茜〜藤色〜薄藍のグラデーションも、真夏ならではの美しさ。 しかしその嬉しさとは裏腹に、今年の夏はとにかくだるい。これを巷では夏バテというのでしょう・・・。 自分でサイトに接続して「あれ?8月まだ更新していなかったっけ?」と驚いた位、今回ひとりごとの事はずっと頭の隅っこにちらついていました。何度かちょこっと書いたものの、いつものように朝まで頑張ってまとめてしまう事ができずに寝てしまい、数日して「あ〜これは古い」とそっくり消す。時間が少しあれば更新と練習を天秤にかけてみて、結局練習を選ぶ。そんな感じで書いたつもりになり、2週間経ってしまったのです。何度も見て下さった方へ、ごめんなさい。 しかしいつの間にか、所沢のリサイタルまで1ヶ月を切りました。夏の間必死でさらうという生活は学生の時以来。コンクールや大学院入試を控えて、汗だらだら気持ちぴりぴりと過ごした事を思い出します。久し振りにそんな事ができるかな?と心配していたのですが、案の定不安は的中・・・。ちゃんと遊んでしっかり寝る、これぞ夏の過ごし方の王道なんだろうなとつくづく思います。しかしなぜ夏って事がはかどらないのだろう?今は実にすばらしく良く寝ています。いつもなら根を詰めて一気にやってしまう事でさえ、諦めて寝てしまうのが当たり前となり、それを気にしているからかどうも寝た気がしないのです。 ずっと気になっていたリサイタルのお礼状、このお休みに残暑お見舞いを兼ねてやっと出す事ができました。今更のようで本当に申し訳なかったのですが、それでも「ありがとう」の気持ちはお伝えしたいと思うし、ここから先に進むためにいっぺん反省して気持ちの整理をする事が、私の場合どうしても必要なのです。 今年のリサイタルは「挑戦」だったと、終わってから実感しました。さらっている時は必死でそんな事は全く考えませんでしたが、馴染みの深いドイツ・オーストリアの作品が少ない事が、当日の心持にこんなに影響を及ぼすとは思ってもみませんでした。慣れているフィールドは居心地が良いけれど、そこに納まってしまってはいけないと常々思うし、だからこそフランスやロシアの素晴らしいこれらの作品、ぜひ弾いてみようと思ったのでした。練習し始めたら新しい発見の連続。それは、まだまだ勉強しなくてはならない事がたくさんあるという事でもあり、それを突き詰めてゆく過程も楽しいのですが、本番はまた別で、正直かなり不安を感じていました。 今のように暑かったら決してできなかっただろうと思いますが(?)、怖さを克服するために無我夢中で立ち向かっていたという感じでした。学校の仕事をいつも通りにこなしながら練習を時間を確保するためには、ずば抜けた集中力も体力も必要でしたが、あそこまで生活の中でピアノが占める割合が高かった事もかつてなく、それも含めての「未知の領域」に向かう事にはかなり消耗させられました。我ながら良くあそこまでできたと思う(全く・・・現状況を思えばの話)。 録音が出来てきたのが遅かったせいもありますが、どうしても聴くのが恐ろしくて、聴けたのは半月経った頃。結構ショックでした。良くも悪くも「全く予想していなかった演奏」・・・。最近はさすがに本番での演奏、終わってから回想して自分でも何となく予測できるようにはなってきたのです。予測できる事が必ずしも良い訳ではないと思うけれど、当日の精神状態を差し引いてみてもどんな演奏だったか予測できなかった事に対して、まず驚きました。そして練習の過程で全く試した事のなかった別の表現が、そこに現れていた事にも驚かされました。 自分が知らない自分をそこに見つけた驚き、とでも言えばいいでしょうか。紛れもなくそれは自分なのですが、知らぬは自分だけ。それに戸惑ったというのが本音です。 準備過程であそこまで苦しめられた事も今までなかった気がしますが、結果的には目の前に新しい世界が少し開けたような気がします。枠を定めず、舞台で起こる事を恐れずに可能性を信じて準備しなくては、と自らを戒めた、そんな本番だったような気がします。しかし本当に今回のことはあまり覚えていない・・・不思議。 というのが振り返ってみての反省でした。やっと書けた。今年の大仕事(?)を1つ終えた気がします。 しかし本当にどうしたことか、これだけの事を書くのに眠気と戦うのが精一杯。いつもならここからもう1回あちこち手直しを入れるのですが、もう限界です。冴えていない文章ですがお許しを(明日またちょっと書き直そう)。今日も暑くなりそうです。おやすみなさいzzz・・・。 |
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