ひとりごと(2006年2月分) |
2006年2月27日(月) 「待つ事」 もう帰ってきています。やはり居場所によって気の持ちようが相当違うなぁと苦笑。だって「時間がないのでちゃんと書けない」と言いつつ、一昨日あんなに長く書いたんだなぁと我ながらびっくり。今だってするべき事は山ほどあるのに、何故かこちらを優先して書いています。 今日は学生さんと室内楽の本番で、この1週間内に別の本番があと2回。「万が一」があってはいけないと思って、前日早い時刻に帰国するようにした訳です。帰って来てから荷物を片付けたり、郵便物やメール、ファクスをチェックしたりする内に、こちらでの時間の感覚が多少戻ってきたような気がしています。 自他と共に認めるせっかちな私も、ロンドンではあまり深く考えずに「待つ」事ができていました。例えば帰国の日、空港は混んでいるので出発3時間前に到着しているようにと言われ、田山くんの忠告も聞いてかなり余裕を見て4時間半前に到着!いつもならそこで「時間が余ってもったいない」と思う自分が居るのですが、「安全圏でホッ」と思ったのです。チェックインを待つ人は長蛇の列で、最後尾には「ここで60分待ち」と(もちろん英語で)出ていました。計ってみれば本当に1時間待ったのですが、ぼーっと考え事をし(ながらも置き引きに合わないよう注意し)ていたらあっという間。出国手続きも30分は待ったと思うけれど別段疲れも感じず、搭乗予定時刻になってやっとゲートが定まってそこへ向かえば更に待たされ、挙句の果てには出発が1時間遅れ・・・。 ロンドンも3度目、昔は結構そういう事が気になりましたが、今は頭が瞬時に切り替わるようになりました。それでも平気で待てるこの状況には自分に違和感を覚えたので、ずっと「なぜ?」と考えていました。出た結論、特にする事がなければいくらでも時間に身を任せる事はできるのだなぁ、と。そういえば日本ではいつも、次の予定の時刻を気にしている。次の予定と言っても、その後ろには人や仕事のさまざまなつながりがあり、迷惑をかけないようにするのが大前提。ロンドンでは身軽な旅人で、ケータイも持たなければ仕事をする必要もない、だから「なるようになれ」と思えるのでしょう。時間に追われるのが嫌いなのに、人一倍きっちり守ろうとする意識がついつい働く自分にしてみれば(なかなか信じてもらえないけれど)、本当に久し振りに時間を意識せずに過ごせました。 今思い起こそうとしても、ロンドンでの長〜い数十時間、そして出発前の日本での慌しさ、どちらも全く実感がありません。その代わり、本当にデュオ・リサイタルをやるんだなという実感は、沸々とわいてきました。そしてもう一つ、過去に思いを馳せる事も普段滅多にないけれど、「一気に読みきった長編小説」と「記憶の引き出しにしまわれていたのによみがえって来た事柄」、どことなく重なるような気がして・・・いったいどれが虚でどれが実だか、よく分からなくなっています。 寝られる時に寝て、食べられる時に食べるというムチャクチャな過ごし方をしていたら、どうもそれは染み付いてしまったらしいのです。眠くて仕方ないとか、寝られなくて困ったと言う事はないけれど、どれ位の間隔で食事や睡眠のサイクルが巡ってくるかという生体リズムが、既に狂っています。これこそ本当の時差ぼけ? ま、それも今日これからの慌しさで忘れてしまうでしょう。まず昼にリハの為にホールに行ったら、明日副科ピアノの試験を控えている高校生のレッスンをしに学校へ行き、終わったらホールにとんぼ返り。 帰国する前の晩は丑三つ時までかかって、全プログラムを通して合わせ、その録音をチェックしていました。その後荷物をまとめてわずかばかりの睡眠を取ろうとしたら、凄まじい暴風が吹いてうるさくて眠れない。朝4時過ぎ、まだ暗く風も吹いている中、たくさんの鳥のさえずりが聞こえ始め、それはさわやかな気持ちのよい鳴き声でした。うつらうつらして目覚めた後に見たのは、ロンドンに来てから初めてみた青空。まっすぐな飛行機雲が十数本、空を縦横無尽に横切っていました。「さすが大都市ロンドン!」なんて思いながら見た不思議な幾何学模様、きっと忘れる事はないでしょう・・・。 2006年2月25日(土) 「2006デュオ・リサイタルに際して」 更新の間が又もや空いてしまいました。実は今ロンドンにデュオの合わせで来ています。束の間の滞在です。 前回は割と時間に余裕があるような書き方をしていましたが、いつしか一気に忙しくなりました。高校の方は授業も実技も試験が続いています。3月初めのブラスのコンサートの合わせもちょくちょく入り、こちらに来る為の準備も必要で・・・極めつけは、デュオのご案内状書き。絶対にこっちに来る前に全部書こうと思って(既に1ヶ月前!遅すぎる・・・)、数日は徹夜状態でした。帰ったら今度はすぐご招待状を書かないと・・・。 今こうやって何とかパソコンに向かっていますが、落ち着いて考えられるような時間がある訳では決してないので、イマイチ文が練れていなかったらごめんなさい。 3月29日に東京文化会館小ホールで行うピアノ・デュオ・リサイタルに際して、ご挨拶に代えて少しだけ。 デュオの相手の田山くんはロンドン在住、私はチャキの江戸っ子(3代続けば「チャキチャキ」なのですが、2代目半なので「チャキ」)なので、今合わせの為にこちらに来ているという訳です。田山くんについて、そしてデュオを組んだ経緯については昨年12月4日のひとりごとに書きましたので、詳しくはそちらを参照して頂ければと思います。 さて、ピアノ・デュオ。アンサンブルの形態の中でもかなり特殊なものでしょう。同じ楽器同士、それも他の楽器を混ぜないで二人が完全に対等な立場という、最も緊密な関係を必要とします。兄弟姉妹やご夫婦という関係でなさる方も多く、その場合は長く時間をかける事も可能なら、深く分かり合える事も多いのではないかと思います。ただそれだけではない何かをこの「遠距離デュオ」でできないか、困難な状況の下で試してみたいと思い始めました(何せあまのじゃくなもので)。 困難な状況というのは、つまりコンサートなどで田山くんが帰国した際にちょっと合わせる、もしくは私がロンドンに合わせの為に行く、そのような方法でしか合わせる事ができません。今回はお互いの予定がうまく合わなかったため、窮屈なスケジュールです。夕方にこちらに到着して、丸1日居られるのは2日間、そして早朝に出発・・・。この間も田山くんはコンサート本番があったりと多忙なので、合わせは朝もあれば昼間もあり深夜もあり・・・時差ぼけも何も気にしているような状況ではありません(大体いつもが時差ぼけを誘発するような生活なので、そんなに苦でもなし)。 普段私は、ソロよりも人と一緒に演奏する事が多いのですが、そんな中感じるのは「アンサンブルの経験の多寡」や「その相手との積み重ねた演奏の回数や年月」に関わらず、合う人とは合うし、合わない人とは合わないという事(かといって投げる訳ではなく、いい音楽にするために最大限の努力はします)。もちろん「合う相手」との間に歴史が生まれれば、更に面白くなってくるのは言うまでもありません。田山くんとは(自分でいうのもなんですが)、合わせに関しては基本的に苦労する事がないのです。例えば初めての曲を最初に合わせる時、特に何も決めず話し合わずいきなり弾き出すのですが、それでも大体のところは合ってしまう。もちろん細かいニュアンスや曲の持っていき方などについて、言葉を交わして一緒に考える事もあります。でもそれ以上の細かい事を決めても、前回のコンサートのように本番当日に全く初めてのやり方で仕掛けられたりする事もあるので(今年はこっちから仕掛けたいけどどうなる事やら)、あまり意味がないかも。大事な事は、「個人的な事では」練習でどこまで仕上げ、当日どれ位集中して細部まで丁寧に弾けるか、「合わせ的な事では」どれ位集中して相手の音楽を聴き、それに対して音で会話のやりとりが出来るか、なのです。本番でそこまで任せられるという信頼感がなければ、絶対に出来ない事でもありますが・・・。 もしかしたら「音楽」、あるいは「アンサンブル」に対する根本的な考えが一緒なのかも知れません。音楽はたとえソロであっても毎回演奏する度に違うものが生まれるもので、相手がいれば更に変わる可能性は高くなる(2人なら2乗4通りみたいに)。その日の気分や体調、ピアノの状態やホールの響き等変わればこそ、前もって決めても仕方ない事が増えるもの。だから細かい事でお互いをがんじがらめに縛らなくても、守るべきもの譲れないものが一致しているから、その点を踏まえて音楽作りをすれば大丈夫なのです。 そして流れに関して。縦の線を合わせるのは基本ですが、縦が合わなくても良い場合はたくさんあります。例えば歌曲伴奏は言葉が入る事によって、ピアノパートとぴったり合わなくてもいい時があります(子音が前に出る時など)。そんな時はあるポイントだけ合わせるようにする「プラスマイナスゼロの発想」で、メトロノーム的にかっちりテンポや拍子を刻まない方が、自然な流れをうまくつかまえられる。歌曲伴奏から学んだこの事は、他の楽器とのアンサンブルをする時にもとても助けになっています。 もう一つ。さっきの事と相反するようですが、心の中のメトロノームに対してジャストで拍を刻むのか、髪の毛1本早目早目に入れるか、逆に遅らせるか?という事。どんどん先に流れるか今にも止まりそうになるのか、テンポは例え一緒であっても、「演奏したり聴いたりする時の音楽の流れ」は全く違ったものに感じるのです。又、ある声楽の先生がおっしゃっていましたが、「音楽は大縄跳びのようなもの」。基本的に縄を回す速度(=テンポ)は一定だけど、誰かが出たり入ったりする時(=フレーズの初めや終わり)は手心を加えて回す速さをちょっと変えてあげる、音楽もそのようなところが必要だと言われ、なんて見事な表現だろうと思いました。 ・・・話が長くなりましたが、このような価値観が一緒だからこそ、頻繁に合わせをしなくてもある程度任せてしまう事ができてしまうのかもしれません。 田山くんの場合は生活の拠点が異なるので、普段何をしているか実は良く知らないのです。それでも音楽上ではとても話が通じます。他の例として、日常生活でも良く分かり合えるからこそ音楽的に合う場合もあれば、音楽に惹かれるのが最初で後にその他の面でも親しくなる場合もあります。でも逆にいくら仲がよい相手でも、音楽では全然理解し得ない場合もあります。いろいろなパターンがあるものです・・・。 話を戻します。例えばよくお引き受けする弦楽器のリサイタル、本番直前1ヶ月ちょっとで数回(曲数が多いので必然的に1回の合わせの時間が長くなりますが)集中的に合わせを入れて、そしてお客様にお聴かせできるところまでアンサンブルを詰めて行く。デュオとして活動していない限り、大抵皆さんそんな方法で本番を迎えているかと思います。そのやり方でピアノ・デュオをしてみてもいいのではないか?と、それが通用するかどうかを「遠距離デュオ」でやってみたい、そう思った訳です。 プログラムについて。2台ピアノのレパートリーのスタンダード且つ傑作をここまで並べてしまったら、次回に何を弾いたらいいんだか・・・という位の選曲です。モーツァルトのソナタは2台の為の作品の少ない古典派の中ではもちろんの事、全ての2台のレパートリーの中でも傑作で、明るく軽やかで親しみ易いというモーツァルトらしさが際立っている作品です。プーランクのソナタはフランス作品の中では充実した内容で、荘重さ、叙情、軽妙洒脱というさまざまな顔を持っています。ルトスワフスキのパガニーニ変奏曲は、古今東西の作曲家がこぞってとりあげたパガニーニのカプリスをテーマに、現代的な辛口の味付けがなされたスピード感溢れる作品です。ラフマニノフの組曲第2番ではロマンティックな響きにのせて、2台ピアノならではの華麗な世界が繰り広げられています。国で言えば大御所ドイツ(オーストリア含む)もの、フランスもの、ロシアものの3本柱、そしてポーランドまで、時代で言えば古典派から近現代までバラエティに富んでいますが、何とか一晩に納まりました。 いろいろ書き並べてしまいました。こんな変わったピアノ・デュオですが、(だからこそ?)ぜひ聴きにいらして頂きたいと思っています。どうぞよろしくお願い致します。 ロンドン、昨日はまだマシでしたが、まだ冬同然の寒さです。空は相変わらずどんよりと曇り、一昨日は雪が降りました。日本に帰ったら、まずは春を感じたい・・・。 2006年2月13日(月) 「集中」 暖かくなったかと思えば寒くなり・・・それにしても昨日の風は凄かった。西高東低の気圧配置がもたらす「カラッと晴れた青い空と裏腹にびぅびぅと吹く北風」、これも多分もうすぐ終わりだなと思えば許せるものかもしれません。 高校の方はまだいつも通り授業もレッスンもあるのですが、大学がお休みになっただけで人生観が変わる位生活も一変するものです。大体学校にいる時は昼食がおろそかになりがち。朝が早く、昼休みもレッスンや授業後の打ち合わせが伸びる事が多いので、外に食べに行く事もできずコンビニ頼み(朝に寄っていくので、早くて他のお店は空いていないのです)。さすがに飽きていた頃だったので、家で簡単に何か作れるだけでも嬉しいです。朝から一日緊張をひきずって夜遅くに帰り、深夜に準備をしてちょっと寝たら又翌朝同じ道をたどる・・・なんて事も良く出来ていたなぁと思う。 それにしても毎年、この時期はとにかく眠い。寒いから眠いのか、気力が落ちてくるから眠いのか分からないけれど、例年だと「暮れから1月、あんなに頑張ったんだからまぁいいか」と諦めて、冬眠の如くよく寝ています。夏の一番暑い時期もそうで、暑さとだるさに耐えかねてお昼寝zzz・・・。ところが今年は今が頑張り時なのに、どうしても動けない。やりたくない事でも気力で結構乗り切れるようなところがあったのに、今は全くダメ。頭の中では「早くやらなきゃやらなきゃ」と思っていて、夢の中にまで出てくる程気に掛かっているのに、そのせいで本当にやりたいと思っている事でさえ体が動かない。全く精神衛生上よくないです。 「いつも頭の中は空っぽに」、というと誤解されそう。正確には「気がかりな事、覚えておかなくてもいいような事は頭の中から排除しておく」、これは常に心がけるようにしています。集中力がなくなったら終わりなので、心配事は早く解決する、記憶に留める程の事ではなければひたすらメモって頭では忘れる、やらなくてはならない事は順次済ませる・・・そこまでして頭も心も楽になれないと集中できないものです。逆に言えば、そこまでしてあるからこそ(よほどコンディションが悪くない限り)すぐ集中モードに入れます。でもそれでは不器用? だから練習は、最後の最後でないとできないのです。1日で言えば夜、本番が控えていれば当日間際。何はともあれ練習にとりかかろう!と思えればいいのですが、要するに小心者という事。 練習できる時は短時間でも集中しているので、いきなり電話がかかってきたり時間になって学生さんが部屋に入ってきたりすると、我に返れなくて戸惑います。「自分の世界」に心は置き去りのまま、言葉もすぐには出てこないし、戻れるまで最低数分は要します。これで謎が解けたという方、多いでしょうね。ごめんなさい。 「どうしたら集中できますか?」とよく尋ねられますが、う〜ん、考えてできる位なら誰も苦労はしないでしょう・・・。 一昨日昨日あたりから少しずつ物事がはかどってきました。ただそれだけの事なのに、かなり気持ちが楽になってきた。これも春の兆し?そんな訳でちょこっとこのサイトも手を加えました(新着情報を参照して下さい)。そんなに急がなくてもいい事だと分かりつつ、でもやるなら一気に。で、やってしまいました。 3月5日の「響宴」のお話は、かなり最近頂いたものです。ブラスの為の作品にハープとピアノも入っている編成なのですが、何と言っても心配なのが「パート譜を見て弾く事」!こんな事を書いているといつも伴奏している学生さんにいじめられそう(?)。入り損ねたり数え間違えたりすると、「スコア見て勉強した?」といつもチェックを入れられるので。私たちは通常スコアを見て弾くのに慣れています。例えば今どこを弾いているのか楽譜上で分からなくなったり(鍵盤を一瞬見た後目を楽譜に戻す時とか)、変拍子やちょくちょく拍子の変わる曲で数えられなくなったりすると、他のパートの譜を見ながら自分の位置を再確認するという裏技を使います(もっともそんな裏業を使うのは非常時のみ)。でも耳で聴こえる音全てを楽譜で確認できる状態に慣れているので、たくさんの音が鳴る中自分のパートだけを見て数える事がすぐできるか、それもしょっちゅう拍子が変わるのに休みが何小節も続く事が度々あるので、自信が持てないのです。 もちろんフル・スコアをすぐに送って頂きました。オーケストラのスコアは見慣れていますがブラスのスコアは初めてで、なかなか興味深いものでした。どんな響きになるのかが楽しみ。早急に勉強しなきゃ。 オリンピックも始まりました。スポーツは見るのも好きですがかなり感情移入してしまうので、選手の皆さんの心理的重圧などを考えるとこちらも胃が痛くなったりします。4年に1度の事だからこそ悔いを残さないように、全ての力を出し切って欲しいと願いつつ・・・。 2006年2月6日(月) 「朝一」 立春を過ぎたのにまた寒波。外に出れば、芽を出している植木鉢の上一面に氷が張っていました。こんなのを見たのも初めて。 先週で学校の試験の伴奏も全て無事に終わりましたが、やはり試験は特別で学生さんは皆緊張したようでした。たった1回の本番に力を出し切れるかどうかはとても難しい事だけれど、朝に演奏するようなシチュエーションは試験位?なんて考えていたら、朝に関する事をちょこっと思い出しました。 かく言う私も高校、大学、大学院と通じてピアノ科の中ではずっと出席番号がトップだったので、試験の順番が最初というのは慣れっこでした(たまに出席番号後ろからという事もありましたが)。年度始めにレッスン時間を決める際、自ら進んで「朝一9時から」を希望した事も何回かありました。と書くとまるで朝起き大得意のようですが、今も昔も変わらず宵っ張り。でも何故か、レッスンは朝というのに抵抗がなかったのです。学校に通うのに今の半分未満の時間で済んでいたのにぎりぎりまで起きられず、家で練習しないでそのままレッスン・・・というのも時折あったような気がします(もう時効)。 他の楽器なら、まずケースから楽器を出してウォーミング・アップをするのが当たり前。しかしピアノの場合、何の本番であっても普通は控え室に楽器がある訳ではなく、指慣らし無しでいきなり初めての楽器を弾かなくてはならないのが常。朝一レッスンでその状況に慣れようなんて思っていた訳では断じてないのですが、この適応力は絶対必要。また受験・実技試験シーズンの冬場、冷え性対策には皆余念がないのです。そんな状況を受け入れてしまっているので、時々「どうぞ指慣らしして下さい」なんて言われると面食らいます。ただソロであれ共演であれリサイタルのような状況は特別で、時間が許す限りずっと弾き続けていますが。 今も宵っ張りである事には何ら変わりはありませんが、翌朝早ければ何が何でも起きて弾けるようになりました。昔の私からしてみれば信じられない事。それにしても試験シーズンのお陰で1日中ピアノを弾くようになったら、こんな真冬にも筋肉が凍り付いて動かなくなる事は全くなくなりました。指先がバリバリに割れて水絆創膏を1日数回塗り直さなくてはならない手間はともかく(今年は特にひどい)、基本的には年間通じて指や腕の状態は変わらなくなりました。昔は冬というと指が動かなくなるものだと思っていましたが、要するにそれは練習量が足りなかったという事? やはり気が張っていたのか、試験の伴奏が一通り終わったらどっと疲れが出ました。体よりは気持ちの方です。自分の事なら自らの責任を取れば済む事ですが、例えば当日弾くべき楽譜をうっかり忘れるとか、寝坊して出番に間に合わなかったとか・・・?そんな緊張感から解放されて気持ちがパッと切り替わったのか、「こんなに疲れていて眠いけどその前にピアノ弾こう」と思っている自分に驚いたりします。ソロ曲をさらっていないから焦りがあるという訳ではなく、体の疲れよりも弾きたい気持ちが優先しているという感じ。そんな時は例えピアノの前にいなくても始終頭の中で音が鳴っていて、無意識の内に暗譜の確認をしているし、どんな風に弾くかアイデアも次々が出てくるもの。ただ残念な事に練習時間には限りがあるので、納得するまで全てを試す事もできない。時間が無限にあった学生時代にはそこまで分かっていなかったので時間もそんなに要せず、皮肉なものです。 それにしてもいつになったらデュオのご案内状が書けるのか、目下の悩みです。気になる事があれば練習に集中できないし、弾く事に専念してしまったら他の事が抜け落ちるし。脳味噌の使う場所が全然違うので仕方ないのですが、どうしたら全てをうまくこなせるかどなたか教えて下さい・・・。 |
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