ひとりごと(2013年6月分)

2013年6月30日(日)             「2013リサイタルの回想・その3」

ちまちまと書き連ねているリサイタルの回想、今日はその3を。

前回は運動機能的な事について書きましたが、心理的な事も当然重要です。試験のように絶対に通らねばならぬ関門でもなく、好き好んでしている事なので、そもそも「舞台に立てる、人前に出られる」という気分になれなければ到底無理。という事に最近気付きました。昔は今よりはるかにはるかに時間があり、未熟ながらもあの時なりに結構納得できるところまでいろいろ試せたので、これをお聴かせできるなら・・・と普通に思えて舞台に立てていたのだと思います。もちろん皆様に聴いて頂くその時間は大切なものですが、今はそれ以外に学校の仕事なども責任があり、常に頭も心も体も同時進行。そのため演奏モードに切り替わるまで時間がかかるようにもなったし、昔に比べて集中するのにいくらか時間を必要とするようになってしまった気がします。集中出来ればあっという間に時間も経つし、何時間も持続できるし、そこにすとんと入れれば(何だかよくわからないけど)普段の自分と全く違う自分が出てくるのですが・・・。

そういう精神状態だったらいろいろな事に気付けるのですが、1週間前まで「素面」だったため、バッハのパルティータの繰り返し、どんな風にするかを決めるのもすっかり忘れていました。考え始めたのは数日前の事。いつもはいろいろな可能性を練習で試しておいて、当日はその中から気分で選んで弾く感じにしています。今回は出来る限り試してみる時間はもうなく、コンセプトだけどうにか決められた位。やはりがっちり隅っこまでどう弾くか決めてしまうと音楽が硬くなるし、1つでも予定と違う事をしてしまったらそれで焦りそうなので。

本番ではとにかく落ち着いて頭をクリアにして、一つ一つ考えながら弾こうと決めました。実際は、全体の印象がバラバラにならぬよう考えながら弾いたつもりが、やはり自然に手が動いて思いつきで装飾音やアーティキュレーションが入ったところもありましたが、そもそも当時はそういう即興的なものが求められていたのではないかと思うので、まぁこれもよいかと。何よりもピアノの反応がすばらしく、普段はしていなかった「タッチの違いで弾き分ける事」が本番でできました。何かのはずみでやってみたら気持ちよいほどたくさんの音色が出せ、調子にのって普段していない事まで思いつきでできてしまった感じですが、本当に楽しかった。現代ピアノでなければできない事でしょう。いつもお世話になっている調律師さんの見事な技術あっての事で、心よりありがたく感謝しています。

という訳でその4へ続きます。ちまちま回想している場合でもないのですが、あっという間に7月に突入です・・・。



2013年6月27日(木)             「2013リサイタルの回想・その2」

前々回、ほとぼりがそろそろ冷めそうだと言う時にリサイタルの回想を少しだけ書きましたが、今読み返してもどうも中途半端・・・。かと言ってあの日の出来事や考えた事を全て書き残そうとしたら、相当時間を取って心落ち着けて振り返らないと無理でしょう。という訳で、今日もメモを頼りに思いつくままつらつらと書いてみます。

本番前にはドレスを着て靴を履いて弾いてみるのはお定まりの事。普段はとにかく弾きやすい格好で練習しているので、改めてドレスやハイヒールで弾いてみると体の使い方が大きく変わってしまうのが良く分かります。同じものを着用するにしても、慣れている家のピアノや椅子で弾くのと、ホールで不安な精神状態で弾くのとはまた違う。どうしてそこまで違ってしまうのだろう?と考えて行き着いたのは、座り方の違いでした。

普段はジーンズやパンツなので、当然弾く時は両足でしっかり支えて弾けている感じがします。前日にドレスを着て弾いてみた時、「あ、座り方が違う」と気付いたのでした。ドレスになった途端、両太もも間を狭くして座るといいますか、骨盤を閉じ気味にしてなぜか座っていました。もちろん全く無意識ですが、ドレスだと何となくお行儀よくなってしまうのでしょうか?

という訳でわざと骨盤開き気味にしてどっしり座ってみたら、確かに普段のジーンズの時の座り方、体重のかけ方にかなり近くなったのです。すなわち高音部や低音部を弾く時、安心して体を左右に倒せる=腕や腰の力を抜く事が出来るようになりました。以前に本番当日、腕の力が完全に抜けず、なぜか肋骨が固まっていると思った時がありました。よりによってなぜ肋骨に力が入るのだろう?と思いつつ、その理由はわからないままでしたが、それは座り方によるものだと何年も経ってみて解決したのでした。

そして靴選びも非常に重要。足元が滑って踏ん張れないとやはり脱力できなくなります。かといって滑り止めの効いている靴にしてしまうと、ペダル踏む時に音がするし、ペダルを踏む足が手前にずれた時もペダル上で靴がくっついてしまって、足を動かす事に神経を使います。あとヒールの高さによって足が長くなる訳で、そのせいで座っている時の体のバランスが変わります。家では、靴を履かずに弾いているいつもの椅子の高さにし、それでハイヒールを履いて弾いてみました。その際椅子を高くするか低くするか両方試し、これもまた答えを得ました。本当はペタ靴が一番いいのですが、ドレス着る手前そんな事も言ってられず・・・。

家でドレスを着て弾く時にここまで冷静に考えてみたのは初めて。本番の日の体の状態が変わってしまうのはなぜなのか、それこそ永遠の課題かと思われましたが、謎が解ければごもっともな話です。

あと本番当日のゲネプロ。いつもは特に意識もしないままゲネプロから本気モードに入ってしまい、本番に残しておけばよかったと思う時が有るのですが、そんな訳で今回は耳や指は本気で試しつつ、集中力は適度に減らしてゲネプロでは弾いていました。そしたら確かに、本番に集中力の余力を残せたような気がしました。

結局はテンポと座り方。この2つに関してベストな選択ができることで、さまざまな問題がクリアできるような気がします。長年漠然と感じていたこれらの事を、今回は意識して実験(?)できました。本番には魔物が潜み、何かしら起きるのが当然と言えば当然。だとしたら、何が起こるにしろ何らかの理由があると思えた事で、無用な不安がいくらか解消した気がします。とは言え、このような運動機能的な事だけでは演奏は成り立たないし、そもそも本番はそんな甘いものではないでしょう・・・。


各曲については、近々「その3」でまた振り返る予定です(が、いつ?)。

今日こそは雨が止みますように・・・。




2013年6月26日(水)             「アイデア」

追われるように毎日が過ぎてゆきます・・・いつの間に夏至も過ぎ、今年ももう半分終わるなんて信じられません。

リサイタル終わってからも心休まらないピリピリする時間が続いていました。とある新人演奏会のお手伝い、演奏時間1人30分というなかなかない企画、それを2人(都合60分)、その中のほぼ半分は全く初めての曲。必死でさらい、合わせをし、録音を聴き直し、曲について考え・・・という曲を仕上げる過程の一連のプロセスを、ぎゅっと凝縮した2週間でした。

今回お引き受けしたのはシューマン、ウェーバー、ベルク、サン=サーンス。クラリネットでは王道を行く大切なレパートリーばかり。リサイタルの練習と並行してやっていればもう少し楽だったかと思うのですが、そこまで心の余裕がなかったのは自分の責任。どれもただの伴奏ならぬ「二重奏(デュオ)」と呼ぶべき曲で、時間(期間)をかけて合わせをし、深めて仕上げてゆくべきものなのに、本番2週間前まで1人でさらっていて頂いている事自体申し訳なく思っていました。なので、合わせで見つけた事を次の合わせまで反映させるのも大変でしたが、何せ初めての曲というのは発見もアイデアも山ほどあるもので、食らいついてゆくのに必死でした。そういう状況の時は、寝ても覚めても常にその曲の事が頭にあるものです。多分夢にも出てきていた気がします(忘れているけれど)。

そのコンサート、舞台でもお互いいろいろ見つけられたいい本番になったと思っています。舞台袖で、ベルクの訳分からなかったところの構造(形式)について突然みえてきた事もあり、リハ無しで舞台に出てお初のピアノながら鍵盤やペダルのコントロールにアイデアが思い浮かび、弾きながら試してみたのもあり・・・初物アイデアづくしというのも新鮮で楽しいものだと思いました。いろいろな事を試したゆえの安定感ある本番というのも良いものですが。

そんな状況だったもので、リサイタルで(あの時も)大変な思いをした事は既に忘れています。1人で舞台に立つ?そんなまさか・・・位の感じです。

話はいきなり変わり・・・

先日の大学生の初見の授業、1つの曲を数人で共有し、音を出さずに楽譜を見るだけで曲について一緒に考え、アイデアを出し合い、解釈をまとめるという事をやってみました。その目的はいろいろあります。初見といえども楽譜を見てそこに多々書かれている情報を拾い上げ(知覚する事)、その事実(書かれている情報)を元にどんな音どんな音楽にするか想像する点では、普通の演奏と同じ。だからこそ数十秒予見して弾くだけでなく、じっくり楽譜を見て、しかし指を動かすと弾く事そのものに夢中になってしまうので、譜を見て頭の中で音を鳴らし、音楽をどう創るか考える事に意味を見出したいと思ったのが一つ。そしてピアノを弾く事は基本的に独りなので、人と一緒に意見を交換しながら曲をつくる経験をしないでも済んでしまう。だからこそ、人と合わせるなら当たり前にするような事を、疑似体験してもらいたいと思ったのが一つ。

グループ分けしたものの最初は何をしていいか、どこから手をつけていいか戸惑っていたようでした。ちなみに課題にしたのは1〜2ページで完結する作品。但しタイトルや曲そのものからイメージとなるヒントがたくさん含まれている曲。楽譜上で目にとまった情報記号などを一つ一つあげていったグループもあれば、まず形式がどうなっているかを探っていたグループもあり、いきなり曲のあちこちの場面でわいてきたイメージを話し合う内に連想ゲームが始まっていたグループもあり、とっかかり方はいろいろでした。これだけ便利な世の中になり、音源はパソコンでいくらでも聴けるようになったからこそ、紙1枚から想像できるような過程をむしろ楽しんでほしい。そんな風に考えて、今年は授業の進め方をかなり変えています。今日はディスカッションだけでしたが、来週果たしてどんな演奏が生まれてくるか?楽しみ〜。

アコースティックな楽器ならではの言わば「不便さ」こそ、愛すべきところだと思っています。何もかもが音に出てしまう。その時の気持ちも考えている事も。だからこそ曲について考え、想いを馳せる事に大きな意味がある、と。

さて、ちょこっとコンサート情報に載せておいた7月の峰の原高原でのコンサート、まだ時刻は決まらないのですが曲目は決めて載せました。すっかり恒例となったフォルテピアノと現代ピアノの弾き比べコンサート。今回はちょっとばかり趣向を変え、ベートーヴェンのピアノ・コンチェルト第2番のソロ・パートをフォルテピアノで、オーケストラ・パートを現代ピアノで(残念ながらオーケストラに来て頂く訳に行かず)演奏します。コンチェルトの時のオーケストラに対してのバランスのとり方、特にモーツァルトやベートーヴェン初期の作品は難しく、いろいろ考えて自分なりの対処の方法は考えて有りますが、フォルテピアノで古楽オーケストラと演奏するとしたらどんな風になるんだろう?実際に試す訳にはいきませんが、興味津々です。フォルテピアノの新たなレパートリーとして、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ(大バッハの息子)の4手ソナタも入れました。詳しくはコンサート情報のページもご覧下さい。

という訳で、あれやこれやと弾かせて頂けるのは幸せな事です・・・。




2013年6月16日(日)             「2013リサイタルの回想・その1」

いつの間にかリサイタルも終わって、かれこれ1週間が経ちました。空梅雨かと思われた空模様も時期外れの台風によってすっかり様子が変わり、蒸し暑さに体が参りそうな日々です。

今まで自分の練習のために時間をとれていたのが嘘のように、いつもの生活が戻ってきています。この先1ヶ月のさまざまな本番の楽譜も手元に来ていたのですが、結局余裕がなく練習できないまま。終わってすぐ新たな譜読みにとりかかり、弾けるや否や合わせも急ピッチで入れています。また、ピアノ・デュオの別の企画の準備もあり、大学もそろそろ前期末。今まではなんとのどかだった事か・・・。いつもリサイタルの前は、何とも説明のしようのない精神状態に追い込まれるのですが、終わってしまうとこれも毎度の事ながら、なんて恵まれた幸せな時間だった事かと思ったりするのです。

お陰様で、20回目となるリサイタルも無事に終える事が出来ました。今回の日取り、いろいろな予定と重なっていらっしゃれなかった方もいらしたのですが、反対に今回初めていらして下さった方も多かったようです。あたたかな拍手で迎えて下さるお客様がいらしてこそのリサイタルで、貴重な土曜の夜のひとときをこのために割いて下さった事に、心より感謝申し上げます。終わってからいろいろな方々からメールやお手紙を頂いているのですが、まだお返事できなくてごめんなさい。少しお時間を下さい。

いつもどさくさに紛れてなかなかリサイタル回想録を書けないのですが、今回は本番終わっても2晩はなぜか眠れないままで、その時にメモ帳ソフトに思いついた事を書きつけておきました。今読み返してみると本当にこんな事を考えていたのか?と思うほど実感がないのですが、一応それを元にちょこちょこ書いてみます。

今回は本番1週間前まで舞台に立っている自分をどうしてもイメージできず、それはすなわち、精神状態が本番モードになれないままという事を意味します。それに恐れと危機感をずっと抱いていたら、最後の数日でやっとそこまで精神状態を持ってこられた感じでした。冷静になって考えてみれば、本番の半月、1カ月前からそんな精神状態でいたら当日まで当然持たないのですが、やはり心配症であるが故、ものすごく不安になってしまうのです。当日はゲネプロからふわふわと地に足がつかないような中で弾いていて、自分であって、でも自分でないような不思議な感覚、そして終わったらあっさりと普段の自分に戻っていました。翌日は大変お世話になっていた先生のコンサートに伺い、最近忘れかけていた大切なものを思い出せたのですが、自分が前日にあのような舞台の上に立っていたのがどうしても信じられなくて、妙な気分でした・・・。

ムソルグスキーの「展覧会の絵」、以前にも書いた気がしますが、この曲を舞台に載せる事は絶対にないだろうと思っていました。それを弾く事になった自分自身びっくりでしたが、いらして下さったお客様からも「今までにない一面を見た気がする」とか、「新境地を開いた」とか、言って頂きました。結果的にはこの曲に出会えて本当によかったと思いますし、今のタイミングでなかったらあり得なかっただろうと。これもきっとご縁なのでしょう。

一般的に良く知られている作品ですし、何かと耳にする機会も多いのですが、いざ練習しようと思ったらこの曲について何も知らない事に気付きました。耳で聴いている感じと譜面の印象がそもそも全然違いますし、タイトルの1つ1つが表している内容も良くわからない。訳わからない内は練習の手が進まないので、弾く前にまず調べなきゃと思ったのです。ラッキーな事に自筆譜ファクシミリが見られ、楽書もすぐ見つかり、漠然と今まで感じていたこの曲の謎が一つずつ解けて来ました。

「展覧会の絵」には、「ハルトマンの思い出」という副題がついています。建築家でデザイナーであったハルトマンの遺作展から触発されて作曲、急逝した親友への想いに満ち満ちているのを感じ、またなぜかその気持ちが理解できるような気がします。昔はこの曲の譜面がえらくシンプルなのに驚き、どう弾けばよいのか全く分からなかったけれど、作曲者のそんな想いと3週間で一気に書き上げた事を思えば、今はむしろ1音1音にこめられた想いもエネルギーの強さも大切にしたい。そんな風に思うようになったら、楽譜から見えるものも音から聴こえるものも、今までとはガラッと変わってきたのでした。曲の成立過程を知る大切さをここまで実感したのも初めての事。そんな訳で、ムソルグスキーのハルトマン追悼の気持ちに強い共感を持って演奏しました。

ムソルグスキーについてまだ全部書けていないのですが、続きは次回に。・・・って言いつつも、正直書けるか心配です。

今日は雨。こんな時紫陽花や花菖蒲は綺麗でしょうね・・・。


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