ひとりごと(2013年5月分)

2013年5月31日(金)             「展覧会」

今日は非常にいいお天気でした。乾いたさわやかな風と抜けるような青い空はしばらくお預けだと思って、ちょっとどんよりした気分でした。でもこれだけで気分が上向くのだから、おてんとうさまの力はさすが。

さて、昨日の続きの「展覧会の絵」について。・・・と思って書き始めたのですが、消しては書き消しては書き、の繰り返し。昨日の勢いで書いてしまえばよかった・・・。

これだけ有名な曲なのであまり深く考えた事もなかったのですが、実際に美術館で絵を見ているかの如く「絵」を10点、その間をプロムナードでつなぐという発想、改めてすごいと思います。各曲のタイトルが何を表しているのか謎の曲がいくつもありましたが、その内容が分かったらこの独創的な音並びやリズムにも非常に納得がいきました。調号の多い調性が多く選ばれている事にも深い意味を感じますが、プロムナードも含めて違和感なくつながるように考えられています。それを3週間で書き上げたというのだから、やはり霊感のなせる技としかいいようがない・・・。

日頃から展覧会、美術展には良く行くので、みている人の気持ちになりながら弾く事ができます。人々の足音しか聞こえない状況なのに、皆がしゃべらない事を気づまりに思う訳でもなく、集中していたりいろいろ想いを馳せたりしながら見ているあの空気が好きです。それにしても、それを音で表現するというのは・・・。

単純に楽譜を模様として眺めてみても、ドビュッシーの繊細さ複雑さと真逆のよう。ムソルグスキーの方は音1つ1つにエネルギーが宿っていないと太刀打ちできないものを感じます。「カタコンブ」の和音1つ1つ、そして「ボガティル門(キエフの大門)」の最後の幅広いテンポなど。また、「古城」の旋律はとにかくフレーズが長く、そしてpp。シンプルに美しく、でも哀しげに、何も変わった事をせずに歌える旋律を書いてくれています。「こびと」や「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ」にはユニゾンの旋律だけの部分がありますが、こういう書き方をする作曲家はあまりいないと思うのです。ここをどう弾くかはとても難しい。この作品全体、単に描写だけでなく、ロシアの精神性もそこに宿っているという説があり、それを読んで納得しました。

ドビュッシーの方は1つ1つの音に感情は全く入らず、感覚的なもの、例えば光とか色とかそういうものを1つ1つの音に置き換え、それを組み合わせて大きなものを描く感じでしょうか。「ピアノのために」のように何かのイメージを描写するのではない曲でも、音1つ1つを積み上げてゆくのは同じで、研ぎ澄まされている神経で1つ1つの音を選んでゆくという姿勢です。ドビュッシーはムソルグスキーに大きな影響を受けたと自ら言っていますが、似ている点もあり、全く逆の点もあるように感じます。

組曲形式も組曲の各楽章の舞曲も、もともとの決まった特徴があるのですが、バッハの「パルティータ」では既に脱しています。例えば「アルマンド」は本来のリズムを捨てて16分音符が流れる音型で書かれており、だから速く弾きたくなるのですが、本来のアルマンドの特徴を考えて少しゆっくり目のテンポで弾いています。また旋律は基本(骨組み)の音を彩るように作られているので、繰り返し用に新たに装飾音符をつけられそうなところも殆ど見受けられません。したがって繰り返しの2回目はどうしたものだか、ちょっと思案中。ドビュッシーの「ピアノのために」も組曲形式を取っていますが、ハーモニーは旋法や全音音階を使ったものでずっと斬新になり、テクニック的には現代ピアノでの華やかな効果を生かせるようになっています。ドビュッシーに珍しい大胆な作風の意欲作でしょうか。

なんだか箇条書風で、どうしても今日はうまく書けません。直したり考えたりする暇があるならピアノ弾く時間に回すべきだと思うので、このまま残します。

曲について思う事を今日はいろいろ書いてみましたが、今回のプログラムは「音で出来る事のいろいろ」を網羅したという感じ。さまざまな響きを見つけ出すのは面白く、また作品の素晴らしさに教えられる事も多いです。あと1週間となりましたが、ご都合がつきましたらぜひ聴きにいらして下さい。当日券も出る予定です。よろしくお願い致します。

まだ1週間「も」ある・・・。



2013年5月30日(木)             「熱意」

予期せぬ早さの梅雨入り・・・先週までの乾いたさわやかな風と抜けるような青い空が嘘のようです。

先日植えた朝顔は芽を出したけれど、バジルは不作。というのは、結構繁々と芽を出す位たくさん種を蒔いたのですが、ある日見たらことごとく双葉が食われ、茎だけが残っているような有様でした。よくよく観察してみるとダンゴムシがちょこちょこ出入りしているようで、綺麗に食べ尽くされています。というところで再度蒔き直したのが数日前、ダンゴムシ一団はかなり離れたところに隔離しましたが、数匹残っていたようでまた食べられていました。なんてグルメなダンゴムシ・・・。

というところで諦める訳もなく、今日再再度蒔き直しました。今年買った種袋にはびっくりするほど種がたくさん入っていたのが運のツキ。また食われてもきっと蒔き直すでしょう。でも育ったら育ったで、今度はバッタの襲来に備えなければ。それにしても都会はエサが少ないのでしょうか。カラスやらスズメやら、食用に植えたものは何から何まで食われてしまいます。なぜ今年はこんなに朝顔の種が少ないのかと思ったら、最後の最後に残った種を完熟するまで待っていたら、あと1日という頃に全てカラス?に食われたのを思い出しました。

先日はドビュッシーの話をちょこっと書きましたが、この数日は「展覧会の絵」を集中的にさらっていました。ドビュッシーの楽譜のあの細かさに比べると、ムソルグスキーの楽譜はかなり情報が少ないです。「展覧会の絵」は、建築家でデザイナーであった友人のハルトマンが急逝し、彼の遺作展からムソルグスキーが影響を受けて書かれたと言われています。曲中には10点の「絵」が有り(実際には2点の絵から1曲にしたのも有るので11枚?)、その「絵」と「絵」の間をまるで歩を進めてゆくように、プロムナード(耳にされたらどなたでもお分かりになる、あの有名なメロディー)でつながれています。ムソルグスキーはこの30分ほどの大作(で傑作)を、わずか3週間で書き上げました。「頭の中は楽想でいっぱい、紙にかきつけるのももどかしい」と手紙に書いている程で、何かに憑かれたかの如く、すさまじい勢いで書き上げたのではないかと思われます(でもなぜか自筆譜の筆跡はとてもきれい)。

実際楽譜に書かれている強弱記号やアーティキュレーション(音をつなげたり切ったりに関する記号)、曲想用語は最小限と言っていいほど少ないです。高校生の時に楽譜を開いてみた時の印象、こんなに情報が少ないなんて・・・とびっくりもしましたし、これで一体どうやって弾くんだろう?と思った事は未だに忘れません。だからか、きっとこの作品を舞台に載せる事は恐らく一生ないだろうと思っていたのです。

時を経て・・・なんと今回「展覧会の絵」を弾く事になりましたが、まさか本当に弾く事になろうとは、ん十年前には思いもしませんでした。実はこれにはきっかけがありました。数年前、私が担当させて頂いた教育実習生の研究授業です。彼女は研究授業のテーマに、迷いもなく「展覧会の絵」を選びました。当時の私は先も書いた通り、この曲は遠い存在だったのですが、彼女のこの曲に対する熱い想いとそこから生まれてくる授業へのアイデアによって、「展覧会の絵」の印象を根っこから覆させられたのでした。研究授業は、この曲の素晴らしさや面白さを熱意を持って、でも分かりやすく丁寧に伝えたとても良い授業となり、それは今もはっきりと思い出せます。

私自身好んで弾いてきたレパートリーとはちょっと違う路線なので、今回のプログラムは珍しいと言って頂く事も多いですし、自分が「展覧会の絵」を弾いているのが非常に不思議なのですが・・・何はともあれ、そういうきっかけを作って頂いた事には感謝しています。

「展覧会の絵」について書こうと思っていたのに結局そこまで至らなかったので、これは明日書けたら書きたいと思います。相変わらずの月末駆け込み更新ですが、自分の中で一応のルールを決めておいて正解でした。これを決めておかなかったらずるずると先延ばしし、きっと年間数回しか書かないでしょう。明日も期待せずに(?)お待ち下さい・・・。



2013年5月26日(日)             「110000!」

やっと花粉症も終わりを迎えたようです。毎年連休明けてもしばらくマスクが手放せないのですが、今月は暑い日が多かったので大変でした。1週間ほど前にマスクを恐る恐る外し、始めの内はくしゃみを連発。あれ?花粉が気管に?という事もありましたが、どうやらもう大丈夫そうです。

さて、このバタバタの内にアクセスカウンターが110000を超えていました!100000に入ってからここまでは長かった〜。更新遅れや1回の分量が少なくなったのが正に響いているかと思いますが、それでも懲りずに覗きにいらして下さる皆様あってのことで、心より感謝申し上げます。いつも本当にありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。

それにしてもなかなか書けなくてごめんなさい。練習しながら、これ書いたら面白いかも?と思う事もいろいろあるのですが、気になってしまった事に取り掛かったら多分練習する事を忘れてしまう。音で考えるのと言葉で考えるのはどうも両立しないようで・・・。

リサイタルまで2週間を切りました。こういう時、いつも「2週間しかないっ」というように思ってしまうのですが、よくよく冷静になってみて「まだ2週間もある」という風に思えないだろうか?とふと考えました。学生さんにはいつもそう言っているのですが、自分の事でなければそれ位冷静に考えられるのはなぜだか。

こういう場合、本番までの期間の内、実質どれ位練習できるかをまず予測。学校に1日いたり、疲れてしまったり、そんな弾けない日もあるかもしれないので余裕をみています。それとは別に練習の計画も。曲を仕上げてゆくまでの過程をイメージして、どういう事を一つ一つクリアしていくか、そのためにどんな練習が必要で、どの段階で何をするか考えます。とは言ってもどんな風に弾きたいか、自分に何が足りないか、現段階でどれくらいのところまで持ってこれているのか、そういう事がみえてこない内はとにかく不安。漠然と練習していても、それが何の役に立っているのか、演奏のどういうところにつながっていくのか、それがはっきりしない練習は殆ど意味を成さないかもしれない。そんな恐れがあるのです。

実は今日までその混沌とした不安の中にいたのですが、それがほんの少しだけ解消しました。やはり「楽譜に始まり楽譜に終わる」のですね。いろいろな方がそうおっしゃっていて、私自身もその通りだと思います。全ての答えは楽譜の中にある、と。

ドビュッシーの「ピアノのために」と「映像1集」をまとめてさらっていたのですが・・・と書くと、なんてさらい方しているんだ?って怒られそうですが、これがなかなか面白いのです。ドビュッシーは楽譜上の記号、つまり作曲家の指示が殊のほか多いので、曲の最初から順番に見て行くと全てを追えずに見落としそう。という事で、1つの項目に絞って最初から最後まで楽譜を見てゆく、というようなやり方をよくします。あ、これは別にドビュッシーだからという事でなく、どの作曲家でもそうしていますが。

例えば「映像1集」の「水の反映」。速度用語だけを最初から最後まで見てゆくと、テンポの変化がとても多い事に気付きます。冒頭のテンポを基準にして速くなるところ、そして遅くなるところがあり、また冒頭のテンポに再度戻るところがあります。大体の感覚で弾いていたのですが、念のため冒頭のテンポをメトロノームで計り、それで冒頭のテンポに戻るところを弾いてみたら、同じではなかった〜。という事は、他のテンポとのバランスが変わってくる訳で、最初からテンポ設定はやり直し。すると、今まで弾きにくいと思っていたところが実は速すぎたせいだと分かったり、ある部分の印象がガラッと変わったり・・・ドビュッシーが細かく書いているリズムやテンポ設定は、全体をきちんと構築するために入念に考え抜かれたものだと、改めて感じたのでした。

強弱記号においてもまた然り。同じく「映像1集」の「ラモーを讃えて」。この曲に使われている強弱記号、全体の割合からしたら、fのつく記号(ff、mfも)はわずか数小節しか有りません。残りはpのつく記号ばかり。しかしその幅が本当に広いのです。p、più p、pp、più pp、ppp、ppppまで・・・なんと6段階。ちなみにpppとppppは曲最後の和音につくのですが、pppは音7つの和音、ppppは音8つの和音、そしてその2つの和音の響きが重なり合うように書いてあります。普通に考えたら音の数が増えた分音量も増える訳なので、ドビュッシーはここで一体どんな響きを求めていたのでしょうか。そしてff、曲の中ではほんの一瞬と言ってもいい位なのに、全体の印象が静かなこの曲の中でちょうどいいバランスが保たれているように感じます。流れの中でffの効果が計算されている事に驚かされます・・・。

その「ラモーを讃えて」ですが、ドビュッシー自身が「サラバンドのスタイルで、ただし厳格ではなく」と書いています。それと比較して「ピアノのために」の「サラバンド」は、響きこそはドビュッシーそのものだけどリズムは至ってシンプル。サラバンドの特徴である、2拍目に強拍が来ることが守られています。「ラモーを讃えて」ではリズムが複雑になり、ドビュッシーが「サラバンドのスタイルで」と書かなかったらわからなかったかも。曲の荘重なたたずまいは似ていますが、わずか数年でこれだけ進化したという足跡が楽譜から見えてきたような気がします。

幾つかの例をあげてみましたが、楽譜をいろいろな切り口からみていくとさまざまな事が分かるのはもちろん、頭の中でぼんやりしていたものが形になって見えてくるのです。という訳で、何が不安だったかわからないという状態から少し正体をつかんだかも?というところまで進めました。もちろん練習はまだまだこれからですが、この先が本当に面白い段階になってきます。

今日はちょっと専門的な話になってしまってごめんなさい。でも今書くならこういう事が一番実感を持って書けると思ったので。しかし文章に起こすのは時間がかかります。イマイチ言葉が選べていない気がしますが、貴重な練習時間は無駄に出来ないので、今日はこの辺で・・・。



2013年5月20日(月)             「20回」

バラの美しい季節になりました。学校のバラ園は満開で、いい香りが漂っています。中庭に面したフェンスに這わせてあるツルバラも今年は大きく育ち、色とりどりの花をつけています。曲目解説書きに苦しめられ、いい天気を恨めしく思っていた連休も終わって、いつしか2週間が経っています。長らくお待たせ致しました。

お天気のいい内に、観葉植物の御一行様を外に出す事も、バジルの種まきも、朝顔の種まきも済ませました。今年はどういう訳だか、祖父祖母の代から引き継いだ火鉢に植わっている赤いバラが、非常に調子が良いです。ここ数年元気が無く、あまり花をつけなかったので心配していましたが、今年は花も多く、また1つ1つの花が咲き始めてから大きく育っていっています。

リサイタルまで20日切りました。気付けば今回、なんと20回目です。1年に1回のペースで続けて来て、もう20回目とは・・・。はじめの10回は、1歩1歩踏みしめて歩いているような感じでした。次の10回は、昨年と一昨年の区別がつかないような、1つ終わればもうすぐ次が来るような、とにかく時間の流れにのみ込まれないように精一杯走っている感じがします。それがいい事だとはもちろん思わないけれど、年齢とともに忙しくなり、心行くまで時間をかける事ができなくなるのは誰しも当然でしょうし。

リサイタルのあれこれをノートにまとめてあるのですが、ちょっと調べる事があっていろいろ見返していました。つくづく、昔はなんて怖いもの知らずだったんだろう?と思います。日々の変化は微々たるものでも、1月、1年、と重なっていって20年も経てば、それはもう大きな変化になっている訳で、自覚がないのは本人のみ。昔から「石橋は渡る前に叩きまくって壊す」タチだったのですが、それでも今思い起こせば、自信もなく慎重な割には自覚がないまま恐ろしい事を平然とやってのけていたんだなと、妙に感心していました。若い内からレパートリーを狭めるのはよくないと思っていたので、自分に合わないかも?と思うものも弾くようにしていたけれど(結果的に道を切り開く事も稀に有り)、それで見えてきた結果を踏まえて絞り込んでもいいかなと思う今日この頃。曲の好みも変わったかもしれません。

でもそれ以上に大きな転換期だったと思えるのは、震災のあった2年前。あの年は確かに価値観が大きく変わりましたが、それ以上に大きく自分の中で変わったものがあります。うまく説明が出来ないのですが、音楽をしている事に昔以上に強い意味を見いだしたいという思いなのか、意味のない欲の下には弾かなくていいという思いなのか、それとも・・・?でもそれは、20回やってみたからこその変化なのかもしれません。いつも、なぜ弾くのか?という自問自答を続けています。

そして目に見えて体力が落ちました。寝る時間を削れば何とかなると言えなくなったので、とにかく時間(寝るための?)が足りないっ。必然的に、本来の学校のお仕事以外は基本的にお休み。その分大分ゆったり過ごせるようになりましたが、曲の仕上がりと比例している訳ではないのが怖いところ。昔はリサイタル前までよくまぁ幾つも掛け持ちしていられたものです。

何を書いているのか良くわからなくなってきたのでこの辺でしめますが、20回も続いたらどうなるか想像した事もなかったし、今もって実感が全くないというのが本音です。別に長く続いたからとてここでやめる訳ではなし、何を変える訳でもなく今まで同様できるだけの事を精一杯やっていくだけです。続きはまた。

今日はお天気悪いらしいけど有効に使おう・・・。


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