ひとりごと(2009年9月分)

2009年9月29日(火)            「接点」

あっという間に今年度ももう半分・・・。

最近考えました。若い時と今と違う事。それは「限界」。若い時は、可能性を広げるために常に挑戦し、逆に限界を知らないが故に失敗する事がいっぱいあり・・・でも失敗は若い内だからこそいくらでもできるのであり、それで可能性が広がるなら必要な事。いろいろな事をやってみて、失敗も山ほどして、そして今の自分がここに在ります。

昔と変わらず、むしろ年を経るごとに目いっぱい頑張れてしまう自分がここにいて、またその中の音楽の比率が右肩上がりに増えて行き、ついでに言えばたくさんの失敗と引き換えに「自分の限界」も知りました。そのお陰で今は大した失敗もせず滞りなく毎日が送れ、好きな音楽に関われて仕事に出来て、感謝と幸せを感じながら生きていられる。でも音楽だけに的が絞られていて、狭い世界の中で孤軍奮闘しているだけでないのかと、ふと考えてしまう時があります・・・。

と、そこで気付いたのは、それって人目を気にしている証拠かも。まず自分がどうしたいのか、それを考えるべき。誰にも平等に1日は24時間しかないのだから、その中で優先順位をつけて出来る事をするしかない、と改めて気付く訳です。今そこまで迷いもなく音楽に入り込めるのは、いろいろな事を経験しようとあれこれ手を出していた学生時代があったから。思えば昔も今も、そういう意味では貪欲。そして全ての人生経験が無駄なく、今に生かされていると言いきれる自信もあります。ちゃんと学校も行き、ピアノもさらっていた上で、他にもいろいろできる時間があったのが不思議でしょうがないのですが〜。

音楽をしながら社会とどんな風に接点を持てるのか、その答えを見つけようとあがいていた時期がありました。答えはもちろん既に出ていますが・・・今こんな事をふと書こうと思ったのは、それを考えさせてくれるきっかけをくれた、長い長〜いつきあいの友人と最近話す機会が持てたからかもしれません。

それにしてもちょっと頑張り過ぎかもしれない。なぜここまで頑張れるのか自分でもわからなくなる時があります。でもそれは望むところで、まだ頑張れる状況に恵まれているから、ま、いいか・・・。

話変わって、家にはサンショウの小さな鉢植えが幾つもあります。いつしかそこで勝手に育っているアゲハチョウを、昔飼っていた時がありました。すくすく育つのと引き換えに樹は丸坊主になり、困っている青虫の為に当時あわてて買い足したり譲ってもらったりしたものです。小さなミカンの樹もあるのですが、サンショウで育った青虫は(同じくアゲハの食草なのに)ミカンは食べないのです。硬くてかじれないらしい〜。それはともかくと、そんな訳で20年来育てていたサンショウに、やっと昨年から花が咲いて実がつくようになりました。雌雄異株なので何株も育てていたのが幸いでした。しかし雄花も雌花も咲き始めたのは同じ年。なぜだか・・・。

という訳で青い実がそこそこ取れるようになって冷凍保存しているのですが、どう食べたらいいかわからない。ちりめん山椒はプロの味には敵わないだろうなと思って、はなから作る気はなく・・・。ふとひらめいて、粒胡椒の代わりにパスタに入れてみました。ざくざく大量のネギ、そしてシラスとキノコのパスタ、サンショウは粒のまま一緒に入れて炒め、最後にレモン汁を加えてみたら、なかなかさわやかで香り高くできました。シラスなので間違いなく合うだろうとふんでのことでしたが、「いい香りのする胡椒(?)」として今後いろいろ使えそうです。久々のヒットでした。

頑張った甲斐あって、ショスタコーヴィチも大分みえてきました。合わせはかなり時間がかかるものの、少しずつ形になっていく過程は嬉しいものです・・・。



2009年9月27日(日)            「勉強」

やっと澄んだ青空が見られるようになってきました。日射しがやわらかくなってきて、風が乾いてきて・・・やっぱり秋だ・・・。

青紫蘇の花が今頃咲いています。バジリコはやっと1株、今更のように蕾が出てきたところ。昨年は7月位に次から次へと花が咲いてしまい、摘み取るのに必死だったというのに・・・今年は種が取れないかも、と心配していたのでホッとしました。やはり天候不順の影響は大きいようです。

私自身も体調が戻ってきました。季節の変わり目は毎年、ちゃんとギアをチェンジするごとく身体の状態も大きく変わります。今年は毎日しっかり汗をかけるような気候でなかったので身体が不完全燃焼していた上、そこでまた変われと言われても・・・と身体が戸惑っていたようです。

来月演奏するショスタコーヴィチ、今「勉強しています」。「さらっています」と書かないのは、弾かない時間が多いから。最近自覚したのですが、練習しているはずの時間、ピアノの前に座っているけれど意外に弾いていないのです。誰かが隣りで聴き耳をたてていたら、「サボってばかり」と間違いなく思うのではないか、と。

曲への取り組み方、明らかに昔と変わりました。とりあえずは弾けるようにならなければ仕方なく、そのために指使いを決める。相当な時間をかけて考える間、ちょこちょこ程度しか弾きません。音を出す前から楽譜上で形式が分かるなら先に探す、それは、同じような部分は同じような指使いで弾くため。今回のショスタコーヴィチみたいに形式が全く見えてこないものは、とりあえずは指使いを先に決めてしまいます。実は、いかにも簡単そうな単旋律が少なくないのですが、ご丁寧に「レガート」(なめらかに奏する)と書いてある事も多いので、それ用の指使いを選ばなければならないのです。簡単な単旋律だからこそ、ただ弾くだけなら毎回違う指、あるいは全ての音を持ち替え指で弾いてしまいそうで・・・。逆にとんでもなく弾くのが難しい部分も存在し、考えるのは難しかったです。

そして先週初めて一通り合わせ、音になったところで思ったのは「何が何だかよくわからない」。特に合わせものだと気になって仕方ない事は、曲の構造(形式)。この感覚は昔から変わりません。「誰が今何をしている(=演奏している)?」、「どのパートが今メイン?」に始まり、「どんな流れでどこに向かう?」、「このフレーズは何小節?」、つまりは「全ての音がどのように重なって曲という形を成している?」が分からないと、弾いていて気持ち悪いのです。理屈っぽくてせっかちなこの性格を如実に表していて、自分でも可笑しいのですが。多分それは、「自分で使った事のない単語でいっぱいの、誰かが書いてくれた原稿を意味もわからずに読み上げる」のはいやで、「例えつたない表現であっても、全てを理解して自分なりの言葉を選んで筋道立てて話す」方がいい、という感覚に近いかも。

という訳でそれぞれの曲、1つの楽章ごとに考えている真っ最中ですが、謎解きがこんなに大変とは・・・。「こんなところにリズムを変えて主題が出てきてる」とか「カノン、見っけ」とか、次々と謎が解けて来るのですが、でもなかなか形式は見えてこない。あっちのページ、こっちのページとめくりながら探すのですが(もちろん弾かないで)、めちゃくちゃ手がこんでいます。作曲者の気持ちとしてはこういう場合、「してやったり」?他にも強弱記号、アーティキュレーション(音をつなげるか切るか)など、結構穴(何も書いていないところ)があるので、そこをどうするか他の場所から推理もします。夢中になっていてふと時計を見ると、2、3時間当たり前に過ぎている。でも作曲家がどれほどの想いをこめて時間をかけて創造したかを思えば、一気に解読しようなんて失礼この上ない事(本当にごめんなさい)。何日も何週間もじっくり時間をかけてその過程を味わって、いつしか深まっていく方がいいに決まっています。頭を使いすぎて気持ち悪くなって(?)、何度もチョコレートを補給しに行きました・・・。

ある程度頭がすっきりしてきたら、晴れてやっと音を出す、指を動かす段階に入ります。でも楽譜に向かい合ってう〜んと考えていたり、こんな音?あんな響き?と探している事もあるので、常に音が聴こえてくる状態になるのはもう少し後の事です。どう表現するかがみつかって、それを定着させる段階の話。

チェロ・ソナタとトリオの2番はお初ですが、ヴァイオリン・ソナタは学生時代に一度弾いています。なぜこんな大変な、しかし素晴らしい作品(と今なら理解できますが、当時は理解できず)に学生時代に取り組めたかと言うと、とある室内楽コンクール(二重奏部門)の課題曲だったのです。他にも数曲準備しなければならなかったのですが、これだけはどう弾くべきか解釈も表現方法も分からず、本当にお手上げでした。あれからん十年、ショスタコーヴィチをいろいろ弾いたり聴いたりする機会があり、いろいろな音楽経験を経て、なぜあの時全く理解できなかったのかが不思議な位。もちろん私にとって近い存在の作曲家とはとてもまだ言えず、近づく努力はもっともっとしなくてはならないけれど、直感的に理解できる事も少しは増えてきました。ショスタコーヴィチにはいろいろな面が存在するけれど、音楽にリラックスという要素は見えてこない。速い曲はストレートに進んでいき、ゆっくりの曲でも静かなる緊張感が常に支配していて、またエネルギーの出し惜しみはあり得ないと思うのです。解釈にまだ自信が持てないのでこれ以上は書けませんが、「多分・・・」と思える事はまだたくさんあります。少なくとも、ショスタコーヴィチは20世紀を代表する作曲家で、またこれらが本当に素晴らしい作品だと今は実感できています。そしてもう一つ。ショスタコーヴィチに多々要求される強いタッチ、重い音や歯切れの良さは昔は出せなかったけれど、今は大分出せるようになりました。

思うところがうまく文にできなくてごめんなさい。やはり音楽と文章の両立は無理。今は謎解きに集中しているので、手直しする時間がなくて〜あしからず。

インフルエンザの流行が気になる昨今ですが、数日前から突然ウィルス付メールが毎日何通も来るようになりました(もちろんウィルス対策ソフトが削除してくれています)。迷惑メールの数自体は前々からすごかったけれど、どうして?皆様もお身体とともに、パソコンにもお気をつけ下さい・・・。



2009年9月22日(火)            「メモ魔」

リサイタルも終わったというのに・・・更新できずにごめんなさい。

すっかり遅くなってしまいましたが、11日のリサイタルにお越し下さいました皆様、本当にありがとうございました。いつもに増していろいろな事を感じ、考えた中で臨んだ本番でした。そして伝えたい、と思う事があり、それを音楽のみならず言葉も通して伝える事に挑戦してみた本番でした。どんな風に受け止めて頂けたか心配ではありますが、またいろいろ反省点はたくさんありますが、でもどこから見ても、どこをどう切ってみても「これはまぎれもなく私」と言えるような本番にはなった・・・ような気がします。

やはり、学校を休まずに準備するのは大変。時間的な事ももちろん、いろいろな事に神経を遣うので、ピアノと自分の事だけに絞るのが間際になってしまうのが毎度の悩みです。「あ、忘れてた・・・ごめん」と言えるような性格なら楽なのかもしれませんが(それも問題?)。翌日はさすがに疲れてぼぉっとしていました。ソロの本番の後はいろいろ考えます。反省もあれば今後への抱負もあり(七転び八起き)、それとは全然関係なくピアノを弾く事を通して見えた「今の自分」に向かいあう事も。「今一番したいのは何?」と考えてみましたが何も出てこず・・・ふと思ったのが「安心したい」。いつも頭のどこかで次の事を考えていて、その不安を抱えている事に初めて気付きました・・・。

最近、ソロの本番も緊張しなくなりました。前から伴奏や室内楽では全く平気でしたが、それに近い感覚かもしれません。正確には緊張しない訳ではないけれど、緊張なんかしていられないと思えばこそそれを押し隠せるのかもしれません。伴奏でいつも通りでいられるのは、ソロの人に余計な心配をしてほしくないので。室内楽もそれとほぼ同じですが、、それプラス「皆と一緒に演奏できるのは楽しい」という感覚があるから。ソロはまたちょっと違います。前日までは本当にもういろいろあり、それは自分との戦いだと思っています。そして当日。説明が難しいのですが、何というか自分に一本筋が通った感じ、揺らがない感じ、とでも言えばいいでしょうか。かなり冷静で、傍目にはいつもと同じように見えるのかもしれませんが、素面と全く違います。そして本番になればぱっとスイッチが切り替わります。別の次元にワープした感じ?いろいろな事を考えているようで、でも曲に入れてもいるようで・・・自分でもよくわかりません。という訳で終わってから、なぜあんな風に弾いていられたのかが分からず、(次の本番を考えると)ふっと怖くなる時があります・・・。

いつしか連休に入り、ちょっとばかり世の中静かになりました。しかし連休がある事自体、休みに入って気付いた位、先週は切羽詰まっていました。リサイタル終わって我に返れば来月のショスタコーヴィチ、練習が全然間に合わない。頭の隅にはちゃんとあったものの、ソロで手いっぱいだったので「あ、忘れてた」に近いです。でも合わせのに日に「ごめん」という事は許されないので、毎日早起きして学校へ行き、夜遅くに戻ってから、どんなに疲れていても寝たいのを我慢して譜を読み、さらい、音源を聴き・・・初合わせにどうにかこうにか間に合わせたという感じでした。伴奏助手時代も練習しながら、音源聴きながら眠ってしまうような事は時々あったけれど、ここまで頑張ったのはあれ以来。ソロの曲なら自分の責任で、そして自分のペースで練習できるけれど、相手がいる場合はやはり迷惑はかけられないので。どこに余力があるんだろう?とか、今寝たら起きるまで何時間?とか考えもせず、必死でした。

そんなこんなだったので、今回はリサイタルの余韻を味わう事はできず、この前のようにメモる気力もなかったので心のどこか奥にしまいこまれてしまいました。何かのきっかけでふっと思い出す事はできると思うのですが。

考える事、感じる事、こんな事も全て瞬発力のなせる技、のような気がします。感覚が研ぎ澄まされてきている時はこれが自分かと疑う位、いろいろな事があれやこれやと出てくるので、頭に浮かんだ事はできる限りメモっておきます。昔は手帳だったのが、最近はケータイになりました。何か一言でもきっかけがつかめれば芋づる式に思い出せたり、あるいは新しい事を思いついたりもする。ただそれらを記憶しておくために脳味噌を使うのはもったいない。メモしておく事で忘れられれば、別の事を何か考えついたりできるはずなので。という訳で、私はかなりの「メモ魔」かもしれません〜。

という訳で所沢のリサイタルについては、日を改めてまた書くつもりです。今しばらくお待ち下さい(まずメモをためなきゃ)。

今までのツケなのか疲れがかなり出ていて、なかなか取れません。身体がきついのか、心が頑張り切れないのか、頭がパンクしそうなのか分からず、あるいは単純に季節の変わり目なのか・・・。お彼岸に入り、今日はいろいろ考える事がありました。一番の特効薬はカラッと晴れた秋の青空・・・。



2009年9月11日(金)            「無意識」

季節はすっかり秋。大好きな夏をちっとも味わえない内に終わってしまいました。

あの恐ろしい事件から8年経ちました。犠牲になられたたくさんの方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

9月に入ったらなんと慌ただしい事。1日の過ぎる早さが一気に何倍にもなりました。今回はもとから、学校を休まずにリサイタルの準備をするつもりにしていたため、毎日きつきつのスケジュールの中で過ごしています。ホッと息抜きしようと思うと15分30分が一気に逃げていくようで、でもその15分30分の積み重ねを大切にしなければならないほど切羽詰まっていて・・・学校へ行く日は寝る時間を削ってさらっていますが、自分の中の軸がぶれていない時は頑張れるものだと思わされています。どんなに時間があっても、どんな練習をすべきか、どんな演奏をしたいか、どんな心構えで演奏に臨むか、そのあたりがみえていなければ時間が流れてゆく事自体が無意味に思えて苦しくて、逆にその答えがおぼろげに見えてきて、だんだんピントが合ってきて、今をどう過ごすべきかが分かってくれば、どんなに時間が足りなくても手ごたえを感じながら有意義に過ごせる・・・みたいです。

やっと今日はオフ。しなくてはならない事がたくさんあります。衣装もしゃべる事も決めていない〜。これをしておきたいという練習は最後の最後まである訳で・・・でも今本当にするべき事は、ペースを落としてのんびり過ごす事。ゆとりが出て心を落ち着けられたら集中もできるし、そしたら無駄な力も抜く事ができるかと。

話変わりますが、先日電車の中で高校大学と同期だった友人にばったり会いました。真前に座っていたのに彼女はマスクをしていたので、私は全然気付かず、居眠りし始めたところにいきなり声をかけられました。もしかしたら卒業以来かも。彼女は、私かどうか確信が持てなくて声をかけあぐねていたそうですが、決め手になったのは、指がピアノを弾くように動いていた事だったとか。うつらうつらし始めると指が動く癖がどうやらあるらしく、先日高山に行くバスの中でも同僚ピアニストに「今すごい速さで弾いていたのは何?」と聞かれたり・・・。頭の中で音が鳴ると、シンクロして指が動いてしまう。全く無意識でしたが、居眠りしている時に常に音楽が頭の中で鳴っているという事・・・?

明日の事でいっぱいいっぱいなので今日はこの辺で。お時間をつくってわざわざいらして下さるお客様のために、出来る限り心をつくして演奏したいと思っています。等身大の、良くも悪くもありのままの自分で・・・。


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