ひとりごと(2009年5月分)

2009年5月29日(金)           「源泉はチェンバロ」

時間が飛ぶように過ぎていきます。意識する最小単位は1時間・・・。日にどれくらい弾いているか数えてもいませんが、しなくてはならない事以外は全てバッハになっています。例年リサイタルの直前にはどうしても一瞬逃げたくなって、「来年は何弾こう?」とちょびっと考えたりしているのですが、それさえもしていない。半月位前までは時々平均律の2巻の曲が頭の中で鳴って、「いかんいかん」と1巻に戻したりもしていましたが・・・「平均律、恐るべし」です。

前回の続き。前々回「2009年のプログラム」のところに書いた「なぜバッハを自分がそう弾きたいと思うか分からない」の話ですが、それは先日チェンバロを弾いてみてやっと説明がつきました。イメージの源泉がチェンバロにあったのです。もちろん私が弾いているのはピアノだし、チェンバロの演奏そのものをピアノでまねようとは思っていませんが。

ペダルは最小限に。オーバーなデュナーミク(強弱)より流れに沿った自然な変化。ロマン派的ルバートではない、フレーズやハーモニー、リズムが元になったアゴーギク(テンポに関するあれこれ)。そんな表現を好んでしている気がします・・・。

チェンバロを弾いていて思ったのは、発音にインパクトがあるのはもちろんで、音の切り際もはっきり分かるという事。ピアノはチェンバロに比べたら、音が出る時も切れる時も「丸く」なります。つまりチェンバロだと、音の長さの違いそのものが表現になる。だからアーティキュレーション(音を切るかつなげるかに関する諸問題)がはっきり聴こえるし、そこにこだわる意味があるかと。

今回さらい直すにあたって、楽譜も新しくしました。ベースで使っているのはヘンレ版ですが、子供の頃から使っている版と今の新版、音そのものや装飾音などいろいろ変わっていてびっくり(新たな資料がたくさん出てきたという事?)。春休み「スイッチが入ってしまった」時に指使いを全て考え直しましたが、すさまじい時間がかかったものの楽しい時間でした。最近つくづく思うのですが、指使いのアイデアって本当に無限。大学生の時に弾いていた曲でさえ、今見ると「こんな弾きにくい指使いでよく弾いていたもんだ」と感心(?)する事があるほど。ましてや子供の時の指使いは・・・推して知るべし。そもそもはペダルを極力使わないで多声部をレガートで弾くため(お陰でチェンバロを弾いた時全く困らなかった)に考え直したのだけれど、1を使わないくぐり指(例えば3434とか)、黒鍵から白鍵へのすべり指(33とか44とか)、持ち変え指が随分と増えました。・・・なんて苦労して決めたのに、弾いている内に結局弾きやすい新たな指使いにおさまり、もう面倒だから書き換えていない・・・。

そんな事を考えながらチェンバロを弾いていて、だったらピアノで弾く時にペダルを使う意味は?と考えました。同じ音が続く時、指だけでレガートが不可能な場合。そして例外的な使い方、まれに響きを持たせるために踏んでいる事もあります。どちらにしても、統一したコンセプトでペダルを使うのは難しい〜。

プレリュードとフーガの24セット、ばらしてしまえば48曲、これを続けて弾いて大きな大きな1曲とみなすならば、1番気をつけねばならないのは拍子とテンポだと思わされます。気持ちよく音楽にのれるか、その曲のキャラクターをはっきり出せるか、前後の曲同士うまくつながるか、全ては拍子とテンポ次第。

「鶏と卵、どっちが先?」みたいなもので、テンポが変わればアーティキュレーションが変わるのか、アーティキュレーションを変えればこそテンポが変わるのか、よくわかりません。チェンバロを弾いた後にピアノで弾いてみたら、なんだかタッチの感覚が変わった気がしました(実際はしていないけど)。例えば音の切り方、するどくスタッカートにするか、それよりは微妙に長くノン・レガートにするか、それでテンポが変わってしまいます。同じような理由で、アクセントをどれくらいの強さにするかでもテンポは変わります。それに似たような事では・・・リズムが転ばないように、あるいは転んでいないのに転んでいるように聴こえてしまうのを矯正するのに、タッチの速さを音によって変えてみる事、効き目があります。

マニアックな話になってきてしまいました。またまた長くなってきたので、書き切れていないけれどやめておきます。要するにあまりにもたくさんの可能性がある訳で、実は未だに毎回弾く度テンポが違います。当日ホールに行ってみてまた変わり、本番の時の気分でもきっと変わるような気がする・・・テンポ表示が指定されていないバッハだからこその醍醐味?それを楽しめる位の境地に至れればいいのですが、どうなることやら。

さまざまな解釈の可能性があるのを承知の上で、でも「自分はこう弾きたい」と思うイメージの源泉がはっきりしてすっきりしました。でもそんな事よりも、いろいろな解釈を受け入れてくれるバッハの作品がとにかく素晴らしい訳で、何の手もかけない素材だけの状態で十分すぎるほど存在感があり、そして美しい。やはり私は素材派です。ありのまま、そのままに弾きたい・・・。

最後になりましたが、明日のリサイタル、当日券も出ますので18時半に浜離宮朝日ホールにぜひお越し下さい。素晴らしいバッハの作品に出会って頂きたいです。よろしくお願い致します。

気がつけばもう5月も終わり。雨がよく降ります・・・。



2009年5月27日(水)           「60000!」

ご無沙汰しております。この間に新型インフルエンザ騒動がありました・・・。

そしていつしかアクセス・カウンターも60000を超えました。すみません、なかなか更新できなくて。それでも情けをかけて覗きにいらして下さる方々あってこそ、これだけちゃくちゃくと増えていっているのですね。ありがとうございます。続ける事に意義があると思っているので、月4回の更新は何とか今後もキープしていくつもりです。よろしくお付き合い下さい。

いつしかリサイタルも目の前の事となりました。さすがに平均律全曲は、練習していても今までと勝手が全然違います。(今更ですが)練習のペースがつかめてきて、軌道に乗りつつある今日この頃。これを書いてその流れを断ち切るのが怖かったというのもあります・・・。

まともに文章の方に頭を使い始めるとピアノに戻れなくなるので、思いつくままにぽんぽんと書いていきます。

まずバッハを弾くという事。「ピアノを弾く」と言ってもその中にはさまざまな要素が含まれています。指、手、腕、ひいては体をどう使うかという「体」の問題。何を感じ、どう表現するか、また本番に対しての緊張など「心」の問題。そして暗譜に始まり、ミスなく正確に弾く事、いい音を選ぶ事、そして体の使い方、感情の動きなど「全て」をどう統合してコントロールするかという「頭」の問題・・・。バッハを弾くという事は、その3つの中で「頭」に圧倒的に比重がかかるのを実感しました。ま、それは本番で弾く場合の話で、愉しみで弾く場合はあまり関係ないけれど。

「体」の点では、使う音域が狭いし、(当時の楽器を考えてみても)ダイナミックなテクニックを使わないので、基本的に体や腕をあまり動かさずに弾けてしまいます。楽なはずなのに、最初は姿勢に気をつけていても背中が相当痛くなりました。なぜだか考えていて思い当たったのは、実は動かせる方が脱力もしやすいという事。例えば、腕を上げる動作の次には重力に任せて腕が下りる動作が待っていて、その繰り返しでエネルギーの循環が出来るのです。つまり体の動きが少ないまま弾ける事は、常に腕の重さを感じている事なのかも。

そして「心」。感情のおもむくままに表現できるなら、それは解放している事なので楽なはず。でもバロック時代の音楽様式、あるいはバッハの特徴として、感情(も必要だけど)以外のものから表現していかなくてはならない。どちらかと言えば集中力や緊張感、理性の方が必要・・・となると「頭」がもっとも優位な訳です。感情に頼る集中が使えないので、いつもなら気分がのれば3〜4時間は楽なのに、2時間くらいで息抜きしたくなります。こんな不思議な感覚の中で練習するのは初めてかもしれません。

そして練習のペースがつかみにくかった理由。48曲(この際プレリュードとフーガは別ものと考えます)がほぼ同じくらいの重要度、長さを持っているので、どの曲も大体同じくらい意識や時間が必要です。そして1曲1曲が独立した個性を持っているので、それぞれをどう弾き分けるか考えなければなりません。そしてその48曲、例え1日中弾いてもその日の内に全曲練習し終える事は不可能(ただ通すのはさておき)。だから何をいつどのように練習したかを覚えていないと、ある曲は何日も弾いていないなんて事が起こりうる。曲の仕上がり具合の足並みを揃えるのにも神経を遣います。例えばゴールトベルク変奏曲、あれは30の変奏があっても同じ主題(アリア)から派生しているので共通するものがあり、また変奏1つ1つがそこまで長くもないので、今思えば断然楽でした。

いつもは、本番の大体半月前から全プログラムを通す事を始めていました。ここ数年は学校が忙しくなってきて、さすがに毎日(合わせものだとこうはいかない)はできなくなりましたが、これは言わば逆療法。きつい事を敢えて課して、全曲通す時の体力や集中力を鍛えようという魂胆です。でも今回はそれもあまりできていません(これからは毎日!)。プログラム全曲の所要時間が約1.3倍になれば、練習時間も1.3倍、通し時間も1.3倍。道理で大変な訳だ・・・。

先週から今週にかけて、何回か広いところやホールをお借りして弾かせて頂きました。そしてチェンバロも。とにかく楽しかったです。副科で2年位弾かせて頂いていた程度の素人ですが、それでも弾き始めたらチェンバロの感覚が思い出されてきました。聴こえる音、指先で感じるタッチが変わると、テンポも表現も自然と変わる事に驚きました。帰宅してピアノに向かい、チェンバロの感覚を思い起こしながら何か違った表現ができないか試してみたり・・・どうしても納得いかなかったところ、チェンバロに置き換えてみると理解できるようになりました。結果的にテンポもかなり落ちました(もともと走り癖があるので)。

バッハについてとか、練習の過程で気付いた事とか、書きたい事はいくらでもあるのですが・・・ピアノに戻れなくなりそうなので、今日はこの辺でやめておきます。

そうそう、バッハの魅力は・・・「心に効く」事でしょうか。効能、それこそ万能薬かも知れません。そして聴くもよし、弾くもよし・・・。



2009年5月9日(土)            「2009年のプログラム」

やっと晴れました。相変わらずヒノキ花粉の症状に悩まされていますが、うっそうと生い茂る緑の季節という感じで・・・今の季節は好きです。

曲目解説は一応書けましたが・・・今回はいつもと別の意味で苦しい出来です。作曲のいきさつ、平均律とは?クラヴィーアとは?とか避けて通れないものがあり、プレリュードとフーガ各曲に正に一言だけ入れ・・・それでも既に制限字数(2400字)オーバー。いつも思うのですが、意外と「切り詰める」のが難しいのです(私の日常のメールをご存じの方なら、きっと納得して頂けるでしょう)。当たり前ながら、自分自身で研究して・・・ではなく楽書などを読んでわかった事をまとめているだけなので、大変ぶっていますが大層な事は何もしていません。あえて言えば、必要な情報を脳味噌に採り入れ、その中から今回弾く曲の大事な情報をもれなく取り出し、あとはどこに焦点を絞るか、それを自分の言葉で書くのが大変なだけ。

学生時代に一番弾いていたのはバッハとシューマン。ただシューマンはそれなりの年齢にならないと弾ける曲はあまりないので(子供のためのアルバムから数曲は弾きましたが)、そういう意味ではバッハの方が断然長い期間弾いている事になります。学部の卒業試験ではゴールトベルク変奏曲。30分という制限があったので、一応全曲練習して試験間際に30分に入るよう幾つかの変奏をカット。という訳でライヴCDにもなっている4回目のリサイタルで全曲、それも全部繰り返しつきで弾けたのでした。修士の修了試験、演奏ではパルティータの5番と6番、論文はクラヴィーア組曲の各楽章の様式と特徴について。つまり、大きな試験と言えばバッハ、という学生生活だったのです。

今日のタイトルに「2009年のプログラム」なんて書いてみましたが〜例年だとこのタイトルでは3月位に書いています。あと1カ月を切っているのに今更ですが・・・書いてみます。

前にもちょっと触れましたが、プログラムは大体時代順に曲を並べるので、バッハを弾こうと思ったらまず冒頭1曲目となってしまいます。必ずしも時代順にしなくてはいけない事もないですが、私の感覚だとやはり何かを弾いてバッハというのは違和感があります。なので1曲目にするのですが、どうしても(生身の人間ですから)いくらか落ち着かない状態で弾く羽目になってしまうのです。せめて2曲目以降でバッハを弾きたいと思えば前半全て、あるいはオール・バッハしか可能性はない?

そんな風に思い始めたので、数年前から「もしかしたらいつか平均律を全曲弾く事があるかも?」と考えていたのでした。ただなかなか決心はつかない。表向きの理由は「一晩で弾き切るにはちょっと長い?」、本当の理由は「24曲のキャラクターをきちんと弾き分けられる?」、「学生時代に弾いてきたものをニュートラルに戻して、全てをゼロから見直す時間の余裕がある?」。ここに迷いがありました。ただ年々追われるような生活になってきて心落ち着く曲を弾きたいと思うようになり、そして自分を見つめ直すとしたら原点であるバッハに帰ろう、と。やっと決心がついたのは今年の事。

「平均律」の名演と称される録音をいろいろ集め、今年に入ってからいろいろ聴き始めました。まだ練習にとりかかってもいませんでしたが、その時に思ったのは、どれも素晴らしいけれど自分の感じている「平均律」像はこれらとまた違うという事でした。原典版にはテンポもデュナーミク(強弱)もアーティキュレーション(音を切るとかつなげるに関する事)も含め、指示が全然書きこまれていないので、いろいろな解釈の可能性が考えられます。ましてやそれをチェンバロ等当時の楽器ではない現代のピアノで弾くとなれば、今のピアノの弾き方にどう置きかえるか、その解釈もさまざま・・・。

今回の「平均律」に限らずバッハを弾く時には、なぜか私の頭の中に「こんな風に弾こう」という音楽が楽譜を見た段階で鳴り出します。子供の時から耳になじんでいるチェンバロの演奏、今までお世話になった先生方の教え(どの先生もバッハの素晴らしさと大切さを強く感じていらっしゃり、それを熱意を持って教えて下さった事に心から感謝しています)もとても大きいのですが、修士論文を書く時に聴いたバッハの(鍵盤作品以外の)いろいろな作品、そして調べた楽譜や文献、楽書なども役に立っているのかなと思うのです。ただなぜ自分がそう弾こうと思うのか、バッハに限っては説明できません。例えばレッスン、いつも感性で何気なくしている事を相手にわかるように伝えるために、文章に置き替えます。基本的に何でも感覚から入っているからこそ、それに確固たる理由がほしくて言葉にする癖が付いているのかもしれません。それはともかく、私が「このように」弾こうと思うのはなぜ?一つだけ言える事は「自然に」。あそこまで完成された作品は、「楽譜の裏まで」しっかり読めていれば、自然の流れに任せて弾くだけで十分という気もするのです・・・。

何だか話がそれました。プログラムの事でした。今回はいつもみたいにメインを決める必要もなければ、時間を計る必要もなし。いつもの基準、「一晩のリサイタルのプログラムは75〜80分におさめる」、これに合わせて24曲から数曲削る必要もないし(卒業試験のゴールトベルクでもなし)。という訳で実は全曲弾いたら、私バージョンで何分になるか未だ知りません。諸CDの演奏時間からしたら、80分は超えるはず。だから今回は開演時間が通常の19時でなく18時半なのです。

話がポンポン飛びながらも珍しく長くなりました、肝心要の事が書けていない気もしますが、また改めて。

今日は「特別な日」だったので、心静かにピアノに向かいました。そんな時にもやはりバッハです・・・。




2009年5月6日(水)            「10本」

今週はやっとお休みでした。ほとんどが曲目解説の執筆・・・というほど大仰なものではないのですが、締切を強引に延ばして頂いた都合上、どうしても書き上げなくてはいけない。そんな訳で苦しい連休です。

しかしいいお天気が続きました。冬越しの為家の中におこもりさせていた観葉植物の御一行様、一気に外に出した事以外、後はほとんど家の中。ずっと文章を考えていれば頭が疲れるので、大好きな夕暮れ時はピアノを弾き、あるいはちょっと休んで空を眺めながらぼぉっと考え事をし・・・こんな事できるのは、春休みのあの時以来。

当たり前ながらピアノを弾く方が断然楽だったりする訳で・・・息抜きにピアノに逃げる、という感じでした。言葉が出てこない時の苦しみたるや、何というか・・・やはり言葉を扱うプロではないので仕方がない。その点ピアノに向かう方は楽です。音楽で遊んでしまう事もできる、大作曲家の遺してくれた作品に真剣に向かい合う事もできる、いろいろ表現を工夫しながらその過程を楽しんでしまう事もできる、弾く事そのもの(テクニック)を追求する事もできる、音楽を通して人生の考え事もできる・・・よかったです。私にはピアノがあって。

・・・なんて事ができるのは今回バッハだからでしょう、おそらく。何も考えず素のままの自分で音楽の中にポンと入れます。ふるさとに帰る時の心境なのかもしれない。恐れ多くも「バッハは私の原点」という表現をさせて頂いていますが、音楽という世界の中のふるさと、という気がします。

今までのリサイタルでとり上げてきたバッハの曲は、組曲作品が幾つか、そしてトッカータ、後はイタリア協奏曲、そしてゴールトベルク変奏曲・・・。でも実は、一番弾きたかったのはフーガでした。あのきちっとした設計図の上に構築された見事な音の建築物こそが、バッハの真骨頂という気がしてならないのです。フーガを独りで弾ける、そういう意味ではピアノを専門にしていて本当に良かったと思います。

フーガを弾きながら何気なく、イカの気持ちを考えてみました。足が10本ってこんな感じ?

「10本」で思い出しましたが、そこから名前をとった珍味がありました。福岡に行った時は、空港からお世話になった方々にお送りし、自宅用にも重いのにまとめ買いしてくるほどの大好物。そう言えばしばらく食べてない〜。

息抜きで書いてみました。また曲目解説に戻ります・・・。


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