ひとりごと(2007年9月分)

2007年9月30日(日)        「家派」

あっという間に9月も終わり。一昨日は真夏の暑さ、昨日は一転して秋、今日は冷たい雨、体が戸惑っています。数日前に学校のキンモクセイの樹を見てみましたが、まだ蕾の気配すら無し。今年は咲いてくれるのか心配です。なのに中庭の柿は、もうすぐ食べ頃と言わんばかりに色づいています。

先週は院生のピアノ・デュオ、そして大人の生徒さんのコンサートを聴きに行って来ましたが、どちらもいい意味で予想を裏切ってくれて、嬉しい気持ちで帰ってこられました。普段のレッスンからこんな感じ?と想像しても、本番を聴いてみない事には本当のところは全くわからない。それを痛感するので、時間が許す限りなるべく聴きに行く事にしています。片や、私自身のホールでのリハーサルも小さな本番もあって・・・自分の心配をしなくては。

毎日のように朝から晩まで家にいない生活をしていると、全てにおいて何か調子がおかしいと感じます。家派か外派かと問われれば、元々は家派。大体ピアノを練習するのに家にいなくてどうする?という事なのですが(学校でさらうか家で丑三つ時にさらう)、その前に出ずっぱりだと相当ストレスがたまります。野暮用の消化日は最低週1日必要で、練習日がそれ以上にもっと必要(理想的なスケジュールだけど土台無理)。

何が花咲き何が育っているかを見て回るのは、こういう日々の中で貴重な時間。なのに今は植物たちの面倒もまともにみてあげられなくて「ごめんなさい」なのです。そう言えば先週見た時、猛暑でばてていたはずのバラに幾つか蕾がついていました。こんな状況なのに咲いてくれて「ありがとう」。

食事が怪しくなってくると体のバランスが崩れてくるので、休みがあれば少しだけ手間をかけてつくったものを食べたい。特に野菜類、明らかに不足です。ふと思い立って今日は虎豆を煮ました。豆のサラダが食べたいと思って前に買ったのに、買った事すら忘れていた・・・。一晩水につけておいて、ことことやわらかくなるまで煮るだけ(と言っても煮豆ではないので少し固めに)。ありあわせの野菜の中から玉ねぎのみじん切り、きゅうりやピーマン、そしてチーズを小さく切ったものと混ぜただけの簡単なものだけど、豆そのものの味がいいのでドレッシングもいらない。「本当に食べたいと思うものはその時に正に体が必要としているもの」と、何かで昔読んだ気がします。

頂いたお手紙のお返事が滞っています。昔からの習慣でグリーティング・カードや一筆箋、切手などはまとめて常備してあるのに・・・。前は結構筆まめに書けたのですが、最近書けないのは時間がないというより多分心が落ち着いていないせい。メールは読み返して推敲できるけど、手紙は頭の中で文を組み立てて一気に書き、おまけにペン書きなので修正できない。自分の気持ちさえもが筆跡に表れそうで怖く、覚悟がいるのです。逆に言うと今書かなければ、書きたいと思えば一気に書ける。それだけ気持ちに余裕がないのかなと反省しています。

平日の昼間でなければ行けないところ、明日まとめて行ってしまいたい。と思ったら、明日から「今までの郵便局」でないのですね。何がどう変わるのかちょっとばかり不安です。

無事にひとりごともアップできそうなので、秋の夜長、これから練習と聴く事(9月17日「聴く」に書きました)に気合を入れます。ついに昼より夜の方が長くなってしまいました。私の好きでない冬も少しずつ少〜しずつ近づいてきます・・・。



2007年9月27日(木)        「詩」

一昨日も昨日もお月様がきれいでした。まっすぐに届く冷たい光を見ていると落ち着きます。でも疑問。満月は今日のはずなのに、なぜ一昨日から「中秋の名月」と言うのだろう?

と思って調べました。中秋の名月とは旧暦8月15日のお月様の事で、旧暦8月15日が必ずしも満月になる訳ではないそうです。なるほど。

書きたい事は本当に山ほどあるのですが、全く時間がなくて・・・。日本歌曲の録音とヴァイオリン・ソナタの本番が迫っていて、今日の合わせと明日のホールでのリハーサルの為に練習をしなければ。しかし眠い〜今にも寝そうです。短時間で書けそうな話題で行きます。

日本歌曲(のピアノ・パート)を弾いていて思ったのですが、かなり好きです。一種独特な世界があり、クラシック音楽の伝統の本流とはちょっと違うものを感じます。それが何だろう?と昔から考えているのですが、思い当たる節はあるものの確信はまだ持てないまま。西洋音楽の伝統を持たないからこそ、自由があるようにも思えます。

日本人にしか歌えない、分かりえない何かがあるのは、詩が日本語だから?日本の方々が作曲された器楽曲ももちろん、日本人にしか分かりえない感性が表現されていると思うのですが、外国の方々が演奏できなくはないはず。でも日本語のもつ奥ゆかしさや語感の美しさ、表現の多様さは、日本人だからこそ分かりうる事(他国語を深く知っている訳ではないので説得力ないけれど)。

突如最近思い出したのですが、中高生の頃は詩も好きでよく読んでいました。いつもとっかかりは学校の授業。心惹かれる詩にぶつかれば、その詩人の詩集を探して歩きました。文庫本で出ているものはお小遣いで買えましたが、ある方の豪華な装丁の詩集を買おうかどうか迷って何回か書店に通い、結局無理をしてまで何とか手に入れた事もありました。今どうしても読みたくなったけれど、そしたらさらえなくなるので今度にします。

言葉の力を信じるようになったのはこの頃からでしょうか。自分で詩を書こうとは微塵も思った事はないけれど、自ら選んだ言葉で人の心を動かせるってすばらしい事だと思うのです。

さて、前回のつけたしですが、コーヒーは毎回あのように飲んでいる訳ではないのです(「あれは甘過ぎ。太るよ!」と忠告?がありました)。最初の1杯だけで、その後はブラック。時間のない時ももちろんブラックです。時には甘く、時には苦く・・・。



2007年9月24日(月)        「2007リサイタルの回想」

お彼岸に入ったものの、猛暑のせいか今年はキンモクセイの開花が遅れています。それでも日が落ちるのが早くなり、ススキの穂が風にたなびき、赤とんぼがぶんぶん飛び交い、あぁ秋だなと実感させられる今日この頃。

さて、今更のようですが6月のリサイタルの回想を。もう遠い昔の事なので、振り返ってみて今思う事を綴ってみます。

今回のプログラム、3月に録音したばかりのものや学生時代に弾きこんだものもあり、また好きなドイツ・オーストリアものを多くしたので、例年より準備(譜読み・暗譜も含めて)はいくらか楽になるはずでした。しかしそういう曲に限ってもっと深いところまで掘り下げられると思うので、どちらにしろ楽な事はありえない。何を弾くにしても大変な事には変わりはないと、改めて感じました。

録音を経た事で、生演奏に対する意識が今回かなり変わりました。ただ漠然と「いい演奏をしよう」と思うのではなく、「ライヴでのいい演奏って一体何?」(もちろん答えは出ていません)。演奏っていろいろな視点から評する事ができるけれど、聴いて下さった方の数だけ感想があって、もちろんどのように感じて頂いてもいいと思っています。ただ、演奏するに当たってその作品とどう向き合って何を考えたか、そしてその1回きりの演奏でどのようなメッセージを伝える事ができたか、それが前提にない演奏をしてはいけないと思う。自分が揺らがない覚悟で演奏できるかどうかは、つまりは選曲にも責任があるのです。

今回弾いたベートーヴェンは学生時代以来(20年弱ぶり)でした。当然その頃とは何もかもが変わり、作品が発しているものも全く違って見えました。これを今から20年後に、そして人生最後に近くになって弾いたら、その時には今とも全く違うものが見えるだろうと思うのです。その時に自分が何を感じて弾くかを楽しみに待ちたいのと共に、テクニックがどれ位衰えているかと不安も湧き上がってきます。

母校での伴奏助手時代に大変お世話になった弦楽科の先生方は、皆さん演奏活動を活発になさりながら、レッスンや学校の仕事もなさっていらっしゃいました。そんな先生方のおっしゃるお言葉にはユーモアの中に実感がこもっていらして、まだ駆け出しの私には「なるほど・・・」と感じられる事がたくさんありました。あるヴァイオリニストの先生はいつもあくせくしている私に、「人生ゆとりも必要だ」と常々おっしゃっていましたが、「人間年をとればだんだん手が動かなくなってゆく。いつかそういう時が来てもずっと弾き続けなさい」とも言って下さいました。当時から10年が経ち、先生のおっしゃったところの本当の意味が分かり始めてきました。

鮮やかなテクニックで弾き切る事は私には到底無理だとしても、年齢相応に(?)ノーミスを目指す事は何とかできますが、それでも人生経験を伴った深い演奏にはまだまだ道のり遠いのも自覚しています。あと何十年か後(もしかしたら10年経たない内に?)指が思うように動かなくなる時が来たら、それと引き換えに今よりは少し深い表現ができるかもしれない。ただ両方とも実現するのは恐らく不可能です。私が本当に求めているのはもちろん深い音楽だけど、それでも録音では傷の少ない演奏が必要かと・・・難しいものです。

今回のリサイタルで自主企画は14回目、その間同じ曲は弾かないようにプログラムを組んできました(アンコールは除きます)。それは考えがあっての事で、ピアノにはこれだけレパートリーがあるのだから、臆せず取り組むべき。弾いてみなければ合っているかどうかも分からないし、テクニック的にも暗譜にも苦労しない若い内に弾いておけば、年齢を重ねてから更に深める事ができるかもしれない。学生時代のレパートリーは決して多くなかったので、実は新しいものづくめになってしまった回もありました。それでも今となってみれば、学生時代には無理と思っていたものが随分弾けるようになって(合っているかどうかはともかく)、正解だったと思っています。

いくらピアノのレパートリーが広いと言えども、プログラムのメインに置けるような曲(重さも長さも)、またその中で弾けそうなものを考えたら、実はそんなに多くはないのです。最近はどう組み合わせるか迷う事も多くなりました。という訳で、20回を過ぎたら以前弾いたものも解禁にして、別の組み合わせでお聴かせできたらと思っています。でもあと6回頑張らなきゃ。

話を戻して、曲についての雑感を少し。学生の頃は気付けなかったけれど、ハイドンは本当に面白いと最近思えます。バッハほど楽譜が真っ白ではありませんが、アーティキュレーション(音をつなげるか切るか)やデュナーミク(強弱)等楽譜の指示がかなり少ないので、どう味付けするか自由な余地が残されています。プラス、繰り返しの折も変えられる。バッハとはまた違ったところにわずかに制約があり、その要領が分かってきたらどうしゃべれるだろうかと楽しみなのですが、それには数ある作品をもっともっと弾いてみないと・・・。旋律のラインがモーツァルトのように恐ろしく洗練されているのとは又違いますが、素朴でシンプル、リズミカルで親しみやすく、自然に歌えるところが魅力です。

シューマンについては、8月に演奏した「女の愛と生涯」もからめて書きます。シューマンの作品は今までいろいろ弾いてきましたが、今回演奏した「フモレスケ」、昔はあまりよく理解できなかったのです。シューマンの言うところの「笑いと涙」とは?そして曲の形式にもまさに表れている気まぐれな感じが、共感出来なかったと言えばいいでしょうか。形があるようでない感じ、そして繰り返しも非常に多い。それをただそのまま弾くだけではなく、どのように表現したらよいのか、学生時代は本当にお手上げ状態でした。

あれから20年弱経ち、いろいろな作品に出会い、いろいろな経験をしてきて分かるようになってきた事もあり、今回は違った想いを持って向かえました。シューマンがクララに抱いていた優しく温かな想いがベースですが、この作曲当時お互い離れて過ごしていて、心がさまざまに揺れ動いている不安定な状態をそのままに表したものではないかと思ったら、何となく理解できるような気がしたのです。そして思い立ったら即行動に移してしまいそうな、抑え切れない想い・・・そういうプライベートの顔が映し出された作品だったのかと、謎解きの答えが少し見つかったところです。

「女の愛と生涯」は「フモレスケ」の少し後、やっと2人が結婚できた頃書かれた作品ですが、妻となったクララはどんな想いでこの曲を見つめていたのでしょうか?この曲が出来たばかりの頃、そしてシューマンが亡くなった後は?夫となる男性との出会い、結婚、出産、そして死別に到るまでの女性の一生を、女性の立場で書いたシャミッソーは男性の詩人でしたが、シューマンも詩を通して女性の気持ちを疑似体験しながら作曲しているように感じます。シューマンの作品は好きでしたが、男性であるシューマンの気持ちを間違って理解しているのではないかと思って、一旦離れた時期がありました。今回「女の愛と生涯」に出会ってみて、シューマンの気持ちも女性(クララ?)の気持ちとそんなに違わないと思えるようになりました。もちろん私個人としても、非常に共感できるところがあったのです。

同じシューマン作でも、男性の立場から歌われる「詩人の恋」は、詩の内容も異なれば全く違う意味合いを持っていると思います。いつか演奏できる事があったらそれを確認してみたい。学生時代ちょこっとだけ友人と演奏してみた事がありますが、これまた本当に素晴らしい歌曲集です。

リサイタルに関して思うところはいろいろありますが、今の思いつきで書き綴っているのでうまくまとめられずごめんなさい。そこまでの心の余裕がなくて〜。つけたしがあったら追い追い書いてゆくつもりです。

なかなか最近まともなお料理もできませんが、コーヒーを入れる時くらいは少しばかり手をかけます。小さいプレーンなマシュマロを7つ8つマグカップに入れ、チョコレートシロップをたっぷりその上にかけ、熱々のコーヒーを注ぎます。家の牛乳はそっとしておくとクリーム分が上に浮いてくる牛乳で(ノンホモジナイズドと言うらしい)、瓶ごとよく振って、少し温めてから泡立てます。マシュマロが溶けかかった上にこのミルクをのせて終わり。これをハフハフとすするのはちょっとだけぜいたくな時間です。チョコレートシロップ無しでシナモンパウダーをミルクの上に振りかけてもいけます。そんな訳で最近はマシュマロを常備。学校のベーグル屋さんでいつも頼むものと実は殆ど同じですが、これも秋の味・・・。



2007年9月17日(月)        「聴く」

9月に入って初めての更新です。お待たせしてごめんなさい。実は何回か書きかけていたのでした。台風通過中の真夜中とか、昨日も。でも日々の慌しさなんて読んでも面白くないような事ばかりになってしまったり、逆に書きたい事があり過ぎるのにまとまらず、その内眠くなってしまったり・・・という訳で今日に到ります。

それにしても台風や大雨警報のせいで(高校は大雨警報でも休校)スケジュール変更が相次ぎ、ただでさえ落ち着かない新学期、いいように振り回されていました。私達はともかくと一番かわいそうなのは、実技試験や副科発表会が延期になった高校生でした。

8月終わりからずっと青空が拝めなくなって約半月、これで夏も終わり?という憂鬱気分を払拭してくれたのは、先週2日続いた見事な夕焼け。ちょうどレッスンの切れ目で、廊下両側、東と西に面した壁いっぱいの窓から、しばしぼぉっと眺めておりました。金色のしましま模様に光る夕焼けが刻一刻移ろいゆき、我を一瞬忘れるほどに美かったです。あれからお天気が続き、再度暑くもなって嬉しいはずなのに、なぜか気分はもう秋です。

9月に入ってからは訳分からぬ慌しさでした。このまま行けば潰されるという危機感。何をおいても足りないのは練習する時間、勉強する時間。どこかできっと怖い思いをするのは目に見えていたので、強引に時間をあけました。一昨日昨日はひたすら聴く聴く聴く。耳と頭が限界まできていたけど、今しか時間がないので仕方ない・・・こんなに聴いたのは人生お初かもしれません。練習やレッスンで1日中音の中にいるのとは、全然違いました。

年明けに修了演奏会を控えている院生2人が弾く予定のプログラムは、その作曲家にとっての傑作中の傑作。それも、私が今後人前で演奏する事は恐らくなかろうと思っていたものばかり。予想外の展開でいいきっかけができましたが、作品について深く勉強し練習しなければレッスンできないし、何よりも作曲家の方々に申し訳ないと思うのです。少しばかり勉強した位では見えてこない事がたくさんあって、まずは聴いてみようと家中ひっくり返して探したら、さすが傑作だけあってCDがたくさん出てきました。その内の1曲は10枚も。どれもこれもが今は亡き「巨匠」と呼ばれる方々の録音でした。

各曲5枚とか10枚とかあれば、1回聴くのが精いっぱい。本当なら演奏だけに集中して聴きたいけれど、勉強目的なので楽譜を追いながら。申し訳ない聴き方をしていると思いつつ、でもそれぞれの方のこだわりが聴こえてきます。そして楽譜に書かれている事を守っているのに、ピアニストそれぞれこんなに違って聴こえる事にも驚き。録音だから実際の生音とは違うのを承知の上で、それでも「これだけ重い音色なのにリズムの生きのよさを出せるのは?」とか、「こんなに美しくレガートしているのに軽やかさが出せるのは?」とか、いろいろな事にも気付けます。

自分でさらう曲は、極力弾き方が定まるまではCDを聴かないようにしているのですが、今回は特別。あまりにも素晴らしすぎる作品ゆえ、その素晴らしさをまず味わいたいと思ったのもあり、曲負けしないで(巨匠なのだからもちろん問題ないのですが)それぞれの個性をどう表現しているのか知りたいと思ったのもあり・・・聴いていてため息がでました。そんな余計な事を考えなくても素晴らしかったのです。ただ、もしこれを自分自身で弾く事になったら、あるいはレッスンするとなったら・・・?そんな簡単に答えは出ません。

他にも、近々自分自身弾く事になっている曲のCD、合わせの際の録音、そしてCD編集の録音チェックなど、いろいろ聴かねばならぬものが溜まっていました。どれもこれも流して気持ちよく聴く事ができないものばかり。

CD編集のチェックは一瞬たりとも気が抜けず、一番時間がかかります。巨匠のCDを聴いた後なので、自分の演奏を聴くのはただでさえ苦痛なのです。楽譜を注視しつつ、あれ?と思えば一時停止してメモって、1回で判断できなければ何回か巻き戻して聴き直し。1回だけのチェックではうっかり聴き流す恐れがあるので、再度同様にチェック。そして3回目に楽譜なしで聴いてみる。自分のメモが読めなかったらまた聴き直し。おまけに普段は小さめ音量で聴いているのですが、大きめで聴かれる方もいらっしゃる事を考えて、かなりのヴォリュームで聴いているのです。ちょくちょく休憩入れないと、耳がとてももたない。さっきまでそんな状況だったので、今頭がなかなか文章モードに切り替わらないのです。

ただ聴くだけのようで、そんな中もいろいろ考えています。弾いていた時の気持ちや思考を思い出す時もあれば、ここがまずい原因は何?と探っていたり、一瞬演奏を離れて楽譜のその部分について作曲家の意図を想像したり、又かつての経験がよみがえる事もあります。その音楽から想起させられる事なら何でもあり。遠い昔に聴いたライヴの名演奏だったり、どこかでみた風景だったり、レッスンで苦労した当時の思い出だったり、どういう根拠で湧き上がってくるのか分からない不思議な気持ちだったり、今度のレッスンでこれは使える!と思える教訓だったり・・・聴きながら追体験しているんだなぁと、ハタと気付きました。

こんな感じだったので、練習まではなかなか手が回りませんでした。事務的な仕事をする時間、体を休ませる時間、そして自分のための時間は言わずもがな。

私達の世代は働き盛り、バリバリと働きつつ時間のやりくりをして素敵に生きている友人が周りにたくさんいて、見習いたいなぁと思うのです。いろいろな性格の人がいて、いろいろなやり方があるけど、誰でも1日は平等に24時間しかない。これだけ不器用だったら何かが犠牲になっても仕方がなく、私の場合はがむしゃらで余裕がなさ過ぎと反省するのですが、でも勉強したい事もやりたい事もまだまだたくさんあるから頑張れるとも思うのです。

しかし「教える」にあたっては、ピアノのレパートリーの広さは脅威!どんなに頑張ってみても、弾いていない曲がごろごろ。だからこそ教える時に自分も一緒に勉強してしまえる利点があるのですが。そしてそれはソロだけではない。ある友人ピアニストが、「ピアニストは弾いても弾いても、弾いた事のない曲がこれでもかこれでもかと来るのよね〜」と言っていましたが、本当にそう思う。ありがたい事でもあり、苦しい事でもあります。

先日室内楽のお手伝いでついていったレッスンでは、先生が「いろいろな楽器の奏者はピアノに学ぶべき」というような事をおっしゃっていました。普段私は全く逆に、「ピアニストは声楽や弦・管楽器から学ぶべき」と思っているので、そんな訳で非常にびっくりしました。独りで何でもできてしまう楽器と言われれば、それもそうだ・・・と。弦や声楽の友人に、「ピアノを弾くのもやっぱり好き」と言っていた人が何人もいて、そういえば「自分で音楽を完結できるのがいい」と言っていたのを思い出しました。

・・・とここまで書いたらそれなりの長さになったので、続きはまた。本題は別にあったけど、書けずじまいでした。文章を書けるのは、考えがまとまったという事。ふわふわと頭の中に思いついては消えてゆく事がたくさんあって、ある瞬間にふっと文章にする筋道が見えたりするのに、書き残すにはかなりの時間が必要です。でも今はピアノを弾きたい気分・・・。


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