ひとりごと(2006年3月分)

2006年3月28日(火)       「再来日」

田山くんが昨夕再来日し、これから本番まで息つく間もなく一気に突入です。

到着してすぐ、疲れもたまっていて時差ぼけもある中、でもしっかり合わせにつきあってくれました(だって後2日だし)。ちょっと間が空いたので、合わせ始めてすぐはお互い少しぎくしゃくするけど、弾き始めれば「いつもの空気」が戻ってきます。一人でさらうのはつまらないというか味気ないもの。お互い全く同じ事を考えていたようで、二人で弾いてやっと一つの音楽になるという当たり前の事を、とても嬉しく感じました。本番まで後数日、という時のテンションになかなか上がれず変な感じでしたが、ふっと忘れていた何かを思い出したようにあの感覚が戻ってきました。

今日も丸一日合わせ。自分でも今日、明日とどのように演奏が変化してゆくのか分からない。追いかけても追いかけても、演奏はどんどん形を変えて「逃げて」ゆく。半分は自分の意思ではあるけれど、もう半分は無意識の内に、まるで何かが音楽の行き先を決めてくれるような気がするのです。その過程をも楽しんでいられるからこそ、きついスケジュールも大丈夫・・・と言っても私は数日間の事ですが、大変なのは田山くんの方でした。

田山くんは本番モードになると凄まじい集中力を発揮するのですが、それに私もつられます。昨日は楽しかった〜。遠慮もしないけれど、必要以上に言葉にしなくてもよく、そんな風に音楽で分かり合えるのはありがたい事(一瞬ロンドンー東京間の距離を忘れます)。ただそれがどういう事(どんな演奏)なのかを言葉でお伝えするのは至難の技。でも聴いて頂けたらきっとこの意味、分かって頂けると思います。

という訳で、折しも満開になるはずの上野公園の桜をお花見がてら、よろしかったら明日、東京文化会館にぜひいらして下さい(それ以上のお誘いの言葉がどうも今日は浮かばなくて・・・)。




2006年3月26日(日)       「春の香り」

晴れたり雨が降ったりしながらも、春は一足ずつ近づいてきます。1日見なかっただけなのに何かしら様子が違う。いつの間にかヒヤシンスが茎をぐいぐい伸ばし、花をつけました。ライラックや山吹、梨の花(桜にそっくり)ももう咲きそうです。昨日驚いたのはシュンラン(春蘭)。緑色の目立たない花なのですが、何気なく鼻を近づけたらその香りにびっくり。何と言い表していいか分からないのですが、気持ちを落ち着かせてくれる品のいい、しかしさりげない香りでした。

そうそう、と思い出して種を蒔きました。カスミソウ、そして何が育つか分からぬお楽しみ5種混合の種。

土いじりのいいところ、それは季節のサイクルを自ずと感じられるところ。どんな植物にも種の蒔き時があり、花の咲かせ時があり・・・植え替えや剪定も時期を逃してしまうと、育ち方が狂うどころか花が咲かなくなったりする事もある。花が咲いたという喜びやいつも季節を意識しているという程よい緊張感が、しっちゃかめっちゃかな日々の中で生活にハリをもたらしてくれる気がするのです。

さすがにコンサート数日前となれば、ピアノを弾く時間を努力せずに作り出せる状況。つまりはその為だけに、なるべく予定は入れずに空けてあります。だからと言って朝から晩まで弾いている訳ではないけれど、当日いい感じに精神状態を持って行く為には必要な時間なのです。例年6月のソロのリサイタルでは、毎週決まった曜日に学校に行きながら練習時間を何とか確保しなくてはならず、5分の空き時間も寝る時間も惜しんでピアノに向かっています。それに比べれば何て楽な事か・・・。

明日田山くんが帰国してからは「缶詰」で合わせをする予定です。田山くんは数日前東京でモーツァルトのコンチェルトを弾き(気持ちの移り変わりが垣間見え、遊び心もある素敵なモーツァルトでした)、すぐロンドンに帰ってガラ・コンサートがあり、それで明日再度「来日」します。演奏の方はいつも、本番に照準を合わせて仕上げてくる凄まじい底力があるので信頼していますが、時差ぼけは大丈夫かな?とそれが心配。

ピアノを弾く事が生活の中心になると、さすがに言葉を扱うのが億劫になってきます。前回、よくあんなに書けたものだとぎょっとしている自分がいます。何となく書き始めたもののどうも今日は指が進まなくて不調・・・。

いつものお任せ宅配有機野菜でふきのとうがたくさん届いたので、ふき味噌を作ってみました。ネットで検索して調べたけれどレシピの量がまちまちだったので、結局は勘がたより。二つ割にしたふきのとうを水にしばらく漬けてアク抜きし、ざくざく刻んで胡麻油(これは自分流)で炒めて、火が通ったら味噌と砂糖とみりんを大よそ同量ずつ入れて練ります。味噌は麹と黒を適当にブレンドし、塩気がきつかったら砂糖を増やし、固かったらみりんで更にゆるめ、苦かったらふきに対して味噌ベースを増やす。こんな風に至ってアバウトに作ったものでもかなりいけました。台所に満ち満ちたほろ苦い香り、これも春の香り・・・。



2006年3月23日(木)       「授業もライヴ」

2回のとんでもない大風にはびっくりしましたが、もう桜が開花・・・早い!

さて。いつか書こうと思いつつなかなか手をつけられなかった話題って、実は結構あるのです。じっくり腰を据えて書く気分になれなかったり、時間が取れなかったり・・・その内タイミングを逃してしまうと、それはまるで「時間が経って伸びてしまったスパゲティを食べるはめになった」みたいで、どうしてもうまく文をまとめる事ができないのです。そんな中から今日は一つ。

新年度の授業の打ち合わせが早速あったもので、当時の出来事や気持ちがちょっとよみがえってきました。高校では副科ピアノのレッスン以外に、ピアノ専攻の生徒さんのための「アンサンブル」、そして全専攻の生徒さんのための「リーディング(初見)」の授業を受け持っています。その昨年度の「アンサンブル」での事。

この授業では、3年間かけてさまざまな形態のアンサンブルに取り組みます。生徒さん同士で組む連弾、2台ピアノに始まり、プロの先生に授業で毎回一緒に演奏して頂きながらの歌曲伴奏、弦・管楽器の伴奏、はてはピアノ・トリオまで。毎年少しずつ内容が違いますが、とにかくぜいたくな環境での授業です。

とは言っても一応クラス授業で、昨年度は1年生を10名程に分けた2クラスを、もう一人の先生と共に受け持ちました。生徒さんの方も年数回試験の度にクラス替えがあり、私たち教える側も両クラスを時折代わります。どことなく中学生の面影を残したまま入学してきた1年生も、1年経ってこんなに成長したんだなぁと思える嬉しい出来事がありました。

1年生の後期は歌曲伴奏。課題にイタリア古典歌曲と日本歌曲、合わせて4曲選び、声楽の先生をお二人お願いしました。私たち担当教師も後期の前半後半でクラスを代わり、声楽の先生にも授業2〜3回ごとにクラスを代わって頂きました。公開レッスン形式で生徒さんにはいきなり歌と合わせて弾いてもらい、それに対して感じた事を、まず声楽の先生からアドバイスして頂きます。歌とピアノ、お二人の間でなされた音楽と感じた事が何と言っても主役。だから私は、声楽の先生のおっしゃる事を踏まえてコメント。それでも声楽の先生お二方とも、私の言わんとした事と殆ど重なる事が多かったのです。そのような授業の中、私たち教える方(声楽・ピアノ)の組み合わせも変われば、ピアノを弾く生徒さんと歌って下さる声楽の先生とのペアも変わり、また曲もその都度違います。まだ1年生だし、毎回目まぐるしく状況が変わって面食らうのでは?と、正直なところ少し心配ではありました・・・。

なぜそのような方法にしたのか、それには訳があります。音楽は同じ曲でもさまざまな解釈があり、また同じ人でも決していつも同じ演奏になる訳ではなく、また相手と音楽を創り上げてゆく過程でそういう不確定な要素が更に増える。「演奏は常に変わるもの」。それは同じ楽譜から興した音楽(「再現芸術」とよく言われますが)でも、生の演奏は1回1回が違うからこそ「創造の賜物」だと言える。それを感受性の鋭い今の内に、ぜひ体感して欲しいと思ったのです。

ピアノを弾くのは基本的に一人。だからソロだと練習のペースは気ままだし、いつも決まった弾き方をしていても差しさわりがない。すると誰かと一緒に演奏する時に人の音を聴けないとか、自分の弾き方を全く譲れないが故に「音楽が喧嘩している」という事態が起こる・・・。

音楽の基本は、人と一緒に創り上げる事。子供の頃から人と合わせるのが好きで、室内楽や伴奏といえばすぐ首を突っ込んでいた私も、そういう認識を持つようになったのは学校を卒業してからでした。管や弦楽器の人にはオーケストラがあり、声楽の人にはオペラや合唱があり・・・そういえばどうしてピアノって一人が普通なんだろう?と。ピアノを弾く事自体、いろいろな意味で周りとの間に壁がある。そう感じるようになってきたのも事実です。

母校で伴奏助手をしていた時に学んだ事は本当に沢山ありましたが、全てのクラスに出入りしていたので、同じ曲でも奏法や解釈が違って当たり前というのを肌で感じられたのは大きかったです。同じクラスでも違う学生さんだとまた変わり、本番もしょっちゅうあり、どんな時でもその場の空気を読み取って伴奏する事を要求されます。そのような環境の中で、私自身ピアノのソロに生かせるような事がいろいろ見つかり、もっともっと勉強したいという想いが強くなっていきました。

話を「アンサンブル」の授業に戻します。授業では、「A先生はこんな歌い方をされるけど、B先生の歌い方はまた違う」とか、「Cさんにはこのテンポが馴染んでいるけど、Dさんの音色だったらテンポが少し早い方が流れるね」とか、それぞれの生徒さんに必要なひとことをアドバイスする感じになります。皆それぞれメモしていましたが、「それは全ての人に当てはまる訳ではないから、必要だと思われる事だけ取捨選択して」とは、繰り返し繰り返し言った事です。「どんな演奏になるかはその時次第だから、耳をダンボにしてよぉく聴いて一緒に音楽をする事!」とも。

私がそこまで言えたのは、授業に毎回お付き合い下さった先生方の全く容赦のない、高いレベルでのアドバイスがあったからです。一番ありがたかったのは、高校生相手とは思わず、歌とピアノと言う対等な立場で接して下さった事。相手が誰かと言うことに関係なくとにかく「いい音楽を創り上げるには」、それだけを求めていらしたのがよく分かり、また一緒に演奏する事を楽しんで下さりました。歌とピアノがぴたりと縦の線で合うかどうか、これはもちろんアンサンブルとしての基本なのですが、それに終始してしまうと音楽が死んでしまいます。先生方はその点には深くこだわるような事は敢えてせず、生きた音楽にするためにいろいろなエピソードを交えてお話し下さいました。

例えば「ピアノのバス(最低音)の弾き方によって倍音の出方が変わり、歌も含めた全体の響きが柔らかくなったりごつくなったり、さまざまに変わる」、「子音の入りをどう捉えるかが、フレーズの始めから歌とピアノが合うかどうかの決め手になる」などなど・・・そのようなアドバイスはすぐには実行できないにしても、何か感じてくれたところはきっとあったと思います。そしてご自分の舞台での経験、留学時に出会われたコレペティトゥア(日本語になんて訳せばいいのでしょうか?オペラの稽古で伴奏したり歌唱指導をしたりするピアニスト?良い訳し方をどなたか教えて下さい)との思い出などなど。お話が熱を帯びてちょっと難しい表現が入ってくると、私が補足や通訳?をしました。時に私も脱線して別の話題に振ったりして、何とか音楽の難しくも素晴らしいところを伝えたいと四苦八苦したのを思い出します。

そういう意味では「授業」もライヴでしょう。いろいろな授業形態があるけれどこの場合、その場で初めて聴く演奏を元に、自分の経験と感性と言葉回しで授業を創り上げてゆかねばならないのです。声楽の先生はさすがに素晴らしく、オペラなどで演技の経験も多数おありでしょうし、言葉の扱いももちろん巧みでいらして、身振り手振りを交えて伝えられるそのオーラにはただただ圧倒されていました。先生の話される事を受けて、「ここで体験談を何か話して頂こう」とか、「いいきっかけができたからこの事について詳しく説明してしまおう」とか、朝でぼぉっとしている脳みそもぴりぴり・・・。いい反応が返ってこない時は、自分の伝え方がまずいんだろうなと反省せざるを得ない。でも興味を持って聞いていてくれる時の目は本当にきらきらしているもので、そこから更に私自身元気をもらっていました。

学年末の試験では皆一つ一つの音を丁寧に演奏するようになり、またアンサンブルでのピアノの役割を自覚し、その上で音楽の流れや間合い、音色を考えてくれるようになりました。「お辞儀は丁寧に」と口うるさく私が言うより(かつて私が言われていた事でもあります)、先生方の美しい立ち居振る舞いが影響したのか、普段と打って変わってエレガントになりました。授業が始まったばかりの時は指の回る速さや音の大きさなどに偏りがちなところもありましたが、すっかり「大人の演奏」に変貌!ひいき目に聴いてしまうのかもしれませんが、「いい味出している」瞬間が時々聞こえて来ると嬉しくなります。生徒さんの前奏がいつも授業で弾いていたのとは違った感じで始まると、先生もそれに合わせて違ったアプローチで歌って下さり、毎回の授業の変遷を知っている立場として非常に興味深く聴けました。しかしプロの先生に歌って頂く授業、自分で言うのもなんですが非常に羨ましい・・・。

話は変わりますが、この季節を迎えてなぜか久々に思い出した事がありました。あちこち旅した時のさまざまな1シーン。春休みをそうやって過ごしていたからでしょうか。

学生時代、年に最低2回位はどこかに行こうと決めて、旅行に行っていました。どこにも行かないと、何か自分が自分で無くなってくるような気がしたものです。もちろん国内貧乏旅行。その他、遠くに住んでいる友達を訪ね、そこに数日居候させてもらって周辺を回った事もよくありました。卒業後ヨーロッパに行くようになったら、なかなか会えなくなった友達を訪ねつつレッスンも受けてくるのが、お定まりのコースとなりました。今でこそ、仕事が入らない旅行は全くご縁がなくなってしまいましたが。

ふっとまぶたの裏に浮かぶ1シーンというのは沢山沢山あって、でもそれが一体どこなのか思い出せない事もあります。絵葉書におさまるような観光名所ではなく何気ない場所だからこそ、どこなのか思い出せないというのもあるけれど、その瞬間に友達と話していた内容、考えていた事、その時の光の感じや気温、色や香りは、その一瞬に限ればはっきりと思い出せるのです。でもどうやってそこに行き着き、そしてその後どうしたかという前後の脈絡はうろ覚え。滅多にカメラを持ち歩かず、しっかり目に焼き付けようと思っていたからでしょうか・・・?



2006年3月15日(水)       「春休み」

あれよあれよという間に3月も半分が過ぎ、後半月で新学期かと考えると(なぜかデュオ・リサイタルとは余り考えない)、ちょっと恐ろしい気がしてくる今日この頃・・・。

前回これを書いたのは、ちょうど仕事が一段落した時でした。でも今の精神的ゆとりのある生活ももう終わってしまう。こういう状態に味を占めてしまうと「いつも」に戻るのが怖くもあり、いい加減「いつも」に戻さないと何だか自分が自分でなくなりそうで怖くもあります。そもそもこのゆとりは、デュオの合わせでロンドンに今頃行っている筈が2月終わりに前倒しになった事によって生まれた、ボーナスのようなもの。最後にゆっくりできたのは昨年8月の初めの事で、その後時間が取れるめどが立たなかったので何だか不思議な気もするけれど、もう充分気分はニュートラルに戻せました。

ご招待状を書いたり曲目解説を書いたり徹夜になった日もあれば、ゆっくり寝られた日もあり、平均してまぁ普通に寝ています。心に引っかかる事は多々あり、その他いろいろ仕事もありますが、毎週決まった曜日時間に学校に行かなくてもよいだけで、かなり気持ちが楽になります。時間を自由に使って予定を組んでいた学生の頃を思い出しました。気持ちに余裕があるだけでもできた事・・・日頃ご無沙汰を重ねている友人達に連絡を取り、作曲家の文献を読んでいる最中なのに久し振りに小説も数冊読み、ちょこちょこと料理をし、美味しいものを見つけて買い、必要な物を探しに街を歩き、花咲く準備をしている植物に向かい合い、勉強中の曲のCDをいろいろ聴き比べ・・・。でも一番は、「あ、あれ忘れてた・・・」なんて余計な事に気を回さずにピアノを弾いていられる事。こうやっていつも弾けたらいいのに。

ゆとりがあるイコールいろいろ考えることができる。いざ考え始めたら、行動を起こせなくなったり言えなくなったりする事がたくさんあります。普段いかにハチャメチャな生活を送っているかという証拠だけど、一応ちゃんと前向きに生きていると考えたい。どっちが本当の自分(に近い)なのか分からないけど、とにかくゆとりがあるのがこの「春休み」の意味、という事にしておきます。

さて、遅くなりましたが「響宴」の感想を少し。

3月7日にもちょこっと書いた通り、なかなか興味深く楽しい体験をさせて頂きました。本番終わってあんなにすがすがしい気分になったのも、近年なかった事。それはきっと、団員の皆さんが純粋な気持ちで取り組み、何の制約も設けず限界も考えずに真剣にベストを尽くされていたからではないかと思います。

練習には数回参加させて頂きましたが、初回で演奏のレベルの高さと練習の厳しさには本当にびっくりさせられました(コンクールの全国大会で度々金賞を頂いているとは聞いていましたが)。トレーナーの先生がそうそうたる方々で、練習の際に出されるご指示には全く容赦がないのです。専攻している本業の勉強が忙しい中、それとは別に部活にかける時間があり、個人練習もしている事を考えると、スケジュールのきつさに体を壊さないかと心配になりました。それでも回を重ねる毎にみるみる演奏が変わってゆく様子を目の当たりにして、団員の皆さんの情熱と努力がどんなに大きいのか分かるような気がしました。

金井さんの作品は(私個人の感想ですが)日本的な古風な響きがし、たくさんの打楽器が用いられているためそのさまざまな音色の面白さのインパクトが強く、今も鮮やかに印象に残っています。私もスコアを送って頂いてからパート譜と見比べていろいろ書き込み、音源も聴いて参考にしましたが、それでも実は怖いところがある位、ソルフェージュ的にもアンサンブル的にも非常に難しい作品でした。

今回の合わせや本番を通じて考えさせられた事、いろいろある中で一つだけ。「全力を尽くす尊さ」という言葉が思い浮かびます。団員の皆さんの何事にも一生懸命な姿勢からあのような音楽が生まれてくるのであって、そしてこういう経験は一生の宝になるんだろうな・・・と。

大勢で一つの作品を作り上げるのは大きな喜びが伴うものだと、改めて感じました。一人も欠けることなく全員が集える事、今まで積み上げてきた練習の集大成として舞台で貴重な時間が過ごせた事、その結果として素晴らしい演奏になったと思いましたし、参加させて頂いてその過程を私も味わわせて頂いた気がしています。指揮された池上先生、団員の皆さん、そして聴いていて下さったトレーナーの先生方の終わった直後の何とも言えない素敵な表情、目に焼きついています。

ところでデュオ・リサイタルまで後2週間。田山くんは23日にモーツァルトのコンチェルトを弾くのでじきに「来日」する筈ですが、そちらのオケ合わせ等忙しく、デュオはもう少し一人でさらわなくてはならないのです。そんな訳で今できる事と言えば、個人的レベルで問題なく弾けるようにしておくのはもちろんですが、楽譜を再度しっかり読み直しておく事、ロンドンでの録音を聴き直す事、そして相手のパートも弾いておく事。ファーストとセカンド、どっちのパートを弾くか決める前に一応両方のパートをざざっと弾いておきますが、ある程度合わせてから相手のパートを弾いてみるのも、意外な発見があって面白いのです。他の楽器とのアンサンブルでは相手のパートを弾くのは不可能だけど、これは2台ピアノならでは。表現や指使いなど二人いればアイデアも2倍になり、相手の都合も手に取るように分かる。合わせる時間が限られているからこそ、前もって合わせの時間に試したい事を決めておく必要もあると思うのです(当日仕掛ける計画もひそかに進行中?)。

ちなみにルトスワフスキ、これは今回セカンドパートを弾くのですが、高校生の頃に同級生と合わせた時ファーストパートを弾いていました。大学生位までに弾いたものは大概何でも覚えているもので、今も無条件に手が動くのです。だからファーストの気持ちもよく分かるけれど、弾く前に一瞬考えないとうっかりファーストを弾きそうになるのが怖い・・・。



2006年3月7日(火)        「紅茶」

やっと!春一番が吹きました。それにしても昨日は本当に暖かかった〜。

「響宴」も無事終わりました。ブラスの一員として舞台に乗ったのも初めてでしたが、なかなか興味深く、そして楽しい経験でした。駒澤大学の皆さんは実にレベルが高く、初めて練習に伺った時は「!!」。当日ももちろん素晴らしい演奏でした。そして学生さん達が本当に細やかに気を配って下さった事、感謝しています。詳しくは次回に書くつもりです。

ロンドンから帰って昨日までの1週間に「響宴」含め3つの本番があり、それが終わった今、どっと疲れが出てきました。その間強引に1日休みにしたけれど、それ以外殆ど家に居なかったので、家の中の事は手がつけられずすごい事になっています。とどこおりなく日常生活を送る為には毎日必ず少しずつ「更新」しなくてはならない事があり、それを着実に毎日続ける事は大変。「今日出来る事は明日には絶対延ばさない」というシンプルな事なのに、「それが一番大切」と思いつつ最近出来ていない・・・。

そう言えばこのところ、いつもに増してたくさんの方がアクセスして下さっていますね。ありがとうございます。ちゃんと書こうとすると更新がまた遅れそうなので、今日はちょっとだけさらっと行きます。

では、紅茶の話を。

随分前に「お茶類はコーヒー、紅茶、緑茶、中国茶、ハーブティー、何でも好き」という話を書いた事がありましたが、ロンドンより帰ってきてからはちょっと紅茶が多いかも。英国はやはり紅茶の国だなぁと思ったのは、ロンドンに向かう機内での事でした。今回は英国の会社だったのですが、機内で出された紅茶が本当に美味しかったのです。ストレートで飲んでもしっかりとした味がしていて、ミルクを入れると更にまろやかになる感じ。今もいろいろな場面で、「紅茶はコーヒーに比べて味の基準が高くない」と思わされる事が多く、またそれに関して半ば諦めているところもあったので、何だか嬉しかったのです。

高校・大学生の頃はコーヒーを体が受け付けない事もあって、完全に紅茶党でした。美味しい紅茶を求めて専門店に飲みに行き、量り売りの紅茶を買いに行き、また紅茶関連の本やエッセーもよく読んでいました。今でこそそこまで苦労しなくても美味しい紅茶は楽に手に入るようになったけれど、コーヒーも飲めるようになった事だし、その他美味しいものの選択肢が増えて、そんな時代が自分にあった事も記憶の彼方に隠れてしまっていたのです。

当時は、イギリスへいつか行ったらまずは美味しい紅茶が飲みたい!と思ったものでした。エッセーを読んで想像を膨らませていたのですが、その本の内容をふと思い出したのが一昨日。既に3回行っているのに全く思い出さなかったというのもおかしな話ですが、いつも殆ど観光する暇がないというのもあり、思い描いていたイメージと実際がそれ位重ならなかったというのもあり・・・近々もう1回読み直してみよう。

紅茶に話を戻しますが、どちらかというとストレートよりはミルクを入れる方が好みです。遠い記憶の中の「最高に美味しいミルクティー」、あれが又飲みたいと思っていろいろな茶葉を試しても、なかなか出会えないもの。割に近いと思えたのはウバでした。

ロンドンでは1日何回も紅茶をティーバッグで淹れて飲んでいましたが、その時に「あぁこの味」と思い出したのです。実は日本からティーバッグを持ち込んでいました。さまざまなブレンドやフレーバーが1つずつパックされていて、計20種よりどりみどり。そんな頂き物(非常に優れ物!)があったのを思い出したのです。ミルクに合いそうなものを選んで飲んでいたのですが、どれもがミルクにとてもよく合い、コクのある味わいも香りも楽しめました。そんな訳で、「美味しいミルクティーの条件って、もしかして(茶葉より)水?それともミルク?」と思ったのです。果たして本当にところは?

いつもの事ですが、大きな缶入り紅茶とともに普段使いのティーバッグも買ってきました。ティーバッグでも1パックの茶葉の量が多くて(そんな気がするだけ?)、リーフティーと余り変わらず飲めるのです。家ではお茶類のエンゲル係数が高いので、質の高い紅茶が気軽に買えるのはとても助かっています。ティーバッグはミルクティー用のブレンドなのか、ストレートで飲むとしたらかなり濃いめ。ミルクを入れて飲んでみましたが、「あぁこの味」には近いもののイマイチ及ばない。あれは幻だったのでしょうか?でも忘れられない味です。

さて、待ちに待った沈丁花が咲きました。高さ20cmになるかどうかのおちびですが、小さくても香りは立派。しっかり春の訪れを主張しています。秋にいろいろ植えつけた球根(チューリップ、ヒヤシンス、水仙、ラナンキュラス、クロッカス、スノードロップなどなど)はまだまだだけど、いずれ一気に咲かせてくれるでしょう・・・。


 過去のひとりごと1へ
 ホームへ

ピアニスト石田多紀乃 オフィシャル・サイト
http://takinoishida.com
メールアドレス mail@takinoishida.com
本サイトの内容の無断転載・複製は固くお断り致します。
Copyright (c) 2004-2020 Takino Ishida
All Rights reserved.